リバタリアン

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リバタリアン

世の中ではオバタリアンのほうが著名だが、ミスタイプではない(笑)。リバタリアニズムを主張する人をリバタリアンという。
そのリバタリアニズムでは、他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだと考える。Wikipediaには、リバタリアニズムは自由主義思想の中でも個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する政治的イデオロギーであるとしている 。私の考えと新自由主義は他の考え方と比較するならば最も適合していそうだ。今までのブログで記してきた私のものごとを捉えるスタンスを振り返ってみると、そう解釈できる。

新自由主義は市場への絶大なる信頼がある。そのキーワードは、小さな政府、民営化、規制緩和、競争的、自由などである。これらの抽象概念を、さらにAND条件で揃うことは必要なのかは講師に問いたいところだ。現実は、折衷的であると思う。しかし、このあたりは既にたくさんの議論がされてきているのだろう。私のような素人が口を挟んで前進するようなものではないのは確かなことだ。今後は外野として、この論争を観戦させてもらおうと思う。

学び体系の素晴らしさ

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学び体系の素晴らしさ

前にも記したのだが、放送大学で聞いた「格差問題と新自由主義」番組により、私は現代の時代をより良く理解できるようになった。私の2012年のハイライトの一つに確実に入るくらい衝撃的な内容であった。このテーマは学問かどうかはわからないが、15回の学びの枠組みは、とても体系だっていて知的刺激も受けた。

具体的にいうならば、今までの社会思想を先達の時空を超えた研究や、論点をコンパクトに整理した上で理解できたのである。学問体系を知っていると、全体像が見えて、すっきりする。全体像をわかったうえでの分類により、過去の論争の問題点や争点はどこにあり、それらを理解する枠組みを、さらに自分の思考や立ち位置はどこにあるかなどを総括的に理解できる。その枠組みにより、あたかもメガネをかけたように突然シャープに世の中が見えて、今までの霧が晴れる。テーマが何であれ、このような霧晴れが、私にとっての学ぶことの楽しさだなと思っている。

理解できないものには手を出さない

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理解できないものには手を出さない

理解できないものには手を出さない。これは誰にでもあることだろう。保険を含む金融商品は典型的なそれだ。大変お得だがという話でも、条件によっては大損をすることがある。先方は、その条件を専門用語を使い説明する。たくさん出てきて、聞いても聞いても良く理解できない。思考停止してしまい、結局は説明する人が信用できそうかで判断する。しかし、たとえ人柄が良くても、相手は役割でやっている。結果として、そんな甘い話はなかったし、今後もないだろう。だから、手を出さないことだというのが私の学習した結果だった。
ITも同じかも知れない。年寄りの多くは、フェイスブックやツィッターを理解できないとするならば、あえて使わないだろう。それは防衛本能としては正しいと思う。もし使いこなせないなら、先の金融商品と同じで、やめておいた方が良い。
ファッションをはじめとする世代間の理解し難い商品もある。そうして思考停止してしまうことは少なくないだろう。多くのことに保守的で手を出さない、この積み重ねが老化だろう。若者でも、このタイプは結構いるのだけれど。
「新自由主義」という思想は、ごく最近まで、私にはうさん臭いものであった。そのため、腰があがらなかったが、放送大学の放映の視聴の機会にて理解することができ、大変に有意義であった。理解するための機会を逃さないことが重要だと思う。

学習の構えとしての「ハビトゥス」

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学習の構えとしての「ハビトゥス」

各自の持つ知識が格差の分岐点ではないかと仮説を述べた(これも、公正な社会を形作るための一側面でしかない)。その知識を獲得するための問題はいくつもある。学習の構え(ハビトゥスという)が育たず、悪しき習慣が身についてしまっていると、知識の獲得、すなわち学びが進みにくいので大変である。言葉を変えれば、成長がなく、思考停止のままの状態が続いてしまう。

親や家庭教師のようなコーチが、その困難に直面したときにいて、手を差し伸べてくれれば幸運である。ただし、何とかその場を理解できたとしても、また同じようなことの発生時に、誰かそばについているだろうか。運よく誰かがサポートしてくれれば、学びは進むかもしれない。しかし、(依存しうる)誰も見守ってくれていないと、知識獲得を放棄するのではないだろうか。そのような人には、(自立しうるまで)期を待つしかないと思う。相手は、その準備ができていないのだから。準備ができるときがくるかの保証はない。事を急ぎすぎることはないと思う。

教えようとする側にてできることは、情報を相手の理解できるように提供することだろう。とはいえ、このレベルですら達成できているかは大変に怪しいが。その上で相手の判断を仰ぐ。それでもだめなら機を待つしかたないというのが私の結論である。そういうと、強いものの論理だとか、現実の社会格差をMiketoyは認め、その是正のための努力をあまりしないのだねとの批判はあると思う。私はそれは、ご本人の課題であり、それ以上のお節介はどんな他者にもできないのではと思う。

情報や知識のもたらす価値

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情報や知識のもたらす価値

やってみなければわからないことを事前に知るというこで、情報は価値がある。情報と似た概念でデータと知識がある。データは価値をもたないものだが、莫大な量ある。知識は、情報をさらに一般化・体系化したもので、量的には極端に少なくなる。情報は断片的で、裏技やテクニック的で、知識とまでいうレベルではない場合も多い。知識は体系だった本によって学ぶことが多いだろう。
一方、テレビや新聞での内容は、大ざっぱに言えば情報でしかないだろう。体系だってはいないかもしれないが価値はあることも多い。
私がケーブルテレビでの新たなサービスへ乗り換えたのは、その種のサービスがあるという存在を知った情報ではあるが、知識とはいえない。情報取得後に、対応した行動を伴ったために、月当たり二千円くらいの価値をもたらした。太陽光発電に関しても同様で、長期的には数十万の価値になるはずである。いずれにせよ、その情報や知識の有無が、少なからずの経済格差をもたらすのだろう。

格差の生ずる例、確定申告する人としない人

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格差の生ずる例、確定申告する人としない人

数週間前に、「所得税の確定申告をしないと損をする」旨を記した。ひとたび税金の仕組みを理解できれば何のことはないのだが、決して容易に理解できるものともいえない。この種のことを、あまり語らずとも直ちに理解できる人もいる。10時間かければ理解できる人もいる。100時間かけて理解してもらえる人もいるかもしれない。それでも、相手に学ぶつもりがなければ、たとえ1000時間かけたとしても、理解できたふりをして自分自身もごまかしてしまう場合もあるだろうし、思考停止や拒絶する人もいるだろう。自らの権利と知り、行動する人としない人では、金額は多少かもしれないが、同一状況下で経済格差が生ずるだろう。この差は何なのだろうか。「 理解力」も大きいと思うが、分岐点は「知識」だと思う。

一般人の格差に対する考え方

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一般人の格差に対する考え方

今年の年初は暇だったので、格差が二極化している問題に取り組もうと思っていた。その2つを貧富というと言い過ぎかもしれないが、読売オンラインの「発言小町」に書き込みをしたのである。私の関心は、格差問題の時代背景や思想といった格調の的高い高邁な話とは異なり、より実践的な、社会格差のある人通しが互いに理解し得るのだろうかということにある。問題として提起した内容は次の通り。

『このごろ社会が二極化してきていると良く言われます。「豊かな人たちと貧困な人たち」は理解しあえるのでしょうか。ここでの貧富は単に経済的な意味だけでなく、もっと広い意味で言っています。ご自身が、どちらに位置しているとお考えなのかも含めて、ご意見をお聞かせいただけるとうれしいです。』と。

この記事は、いずれ情報が古くなると削除されるかもしれないが、お気に入り登録が27もついていたから、人々の関心は少なからずあるのだろう。
結論的には、簡単な話ではないということね。想像するに、豊かな人はこの記事を見ても素通りだろうし、貧しい人も見ないかもしれない。中間層的な位置にいる私のような人たちが反応している?感じがした。

さて、多少は関連するのではと思うが、ある人のツィッターでの数日前のつぶやきで、次のようなものがあった(一部にタイプミスもあるようだが、コピペにて、そのまま引用)。

「小泉元首相、橋下市長、新自由主義、みたな話は、サッパリ理解できない。そういえば、反TPP、反原発とかもわからん。日銀がインタゲ(?)、なんかもハテ? 各種の話題が、理解を超えてる。」


格差問題について

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格差問題について

新自由主義は、現代社会を読み解くためのキーワードだと思う。その新自由主義の弊害として、格差社会化が言われる。格差の拡大で二極化され、それが固定化する傾向すらある。
「社会的地位」の諸側面とか「平等の基準」としての2原則とか、今までさほど焦点のあたっていなかった分野での私達の前提とする考え方を問われ、諸々のことを気づかされる。
「平等の基準」に関しては、分配が参加した人々の作り出した功績、貢献に応じて決定される「功績本位」の貢献原則と、人々が求めるニーズに応じて分配が決定される「必要本位」の必要原則の2つの考え方があるという。

興味深かったのは、自分自身が近づいている高齢者の所得格差が大きいというデータだった。
高齢者の収入が、「資産」、「事業」、「雇用」、「年金」の四分野の所得から構成されるという。「年金」に関しては、ほぼ同一金額相当が提供されている。所得格差が出るのは、残りの三つの存在の有無だという。不動産所得などの「事業」主としての収入があれば、所得は多くなるだろうし、定年後も何らかの形で「雇用」されれば、その分収入は増えるだろう。
必要本位としての「年金」は必要原則として、誰にもほぼ一様に保証されている。「事業」と「雇用」は、貢献原則に対応するだろう。「資産」はクセモノだ。これは、貢献とも必要とも関係ない。たまたま親に資産があり、それを相続することができ恵まれる。この条件は同一ではないので、私は不平等感を感ずる(憤りを感じるほどではないが、特に諸々のニュースなどで感じることも少なくない)。妻は、そうは思わないようで、しかたないのではないかというような見解の相違がある。

学ぶ楽しみ

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学ぶ楽しみ

「格差社会と新自由主義」というタイトルの放送大学のテレビ授業が今週から始まったので、興味深く視聴している。私の関心のあるテーマで、専門家による整理された授業を聴くのは今でも好きである。
以前に通信高校講座も聞いていた。関心のあったのは、現代文、国語表現、倫理などである。うまく工夫して教えている教師に、またその内容の高度さにも驚いたものだ。放送大学の授業についても同様に感じている。様々な工夫もされていて、質の高い番組になっていると思う。但し、この内容と進め方で(一部ではない)一般学生がついてこられるのかは疑問ではある。それは試験をしてみればわかることだが。
言いたいことは、私は学ぶのは楽しいということ。ただし、興味のあることだけだ。若者に対しては、自身の興味関心の範囲を超えることをすぐに遮断してしまうのが心配である。何らかのものに知的好奇心を持ち続けて欲しいと願う。

かみつく親

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かみつく親

卒業できるかどうか、学生の親から先週のある会議中に電話がかかってきた。重要な会議だったので、折り返し私から電話をするといったのだが、のちにまたかかってきた。曰く、「卒業できないと子どもから聞いてびっくりしている」という。「子どもは、きちんとやっていると言っている。だから卒業できないのはおかしい」と主張する。この手の話はよくあることだ。子どものこの間の学業のことを把握していず、また大学のしくみもあまり理解していないようなことが共通している。大学生になってからの四年間は全く放任で、最後の土壇場では、子どもの言い分をひたすら信ずるのだ。この間の、いろいろな途中での提出物などや指示に対するチェックポイントをクリアできていない経過を全く理解していない。子どものいいなりの親のようだ。

その子どもは、そのようにして結果として、(だます意図はないし、悪気もないのだと信じたいが)親をだまし、教師をだましていくのだろう。今後もそのパターンは続くだろう。それで社会が通ると思ってもらっては困る。私は個人的には、卒業させてあげたい。私の卒論指導を受けなさい、口頭試問を受けなさい、卒論発表をしなさい、それが単位を出す条件だよと再三いっている。それは了解してもらっているにもかかわらず、その約束も守らず、卒論最終締切日をギリギリに投げつけるように提出して、さあどうだ単位を認めろというのは、自分勝手すぎていただけない。他の教師は私のようには判断しないかもしれないが、これは私なりのささやかな抵抗である。

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