啓蟄

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啓蟄

昨日は冬ごもりしていた土の中の虫が動き出す「啓蟄」であった。この難しい言葉を数年前に認知したものの、今までは別世界の話であった。しかし、今年は違う。
ガーデニングをしていると、この春になろうとする時期は微妙な季節だ。先週にハンギングバスケットを解体したが、私の目には虫は一匹も見られなかったような気がする。これから出てくるのだろうなという、嬉しいような、でも嫌な気分である。

仕事をしていると、いやなことに遭遇することがある。家に帰って、植物を手入れする時は傷ついた心は癒される。ガーデニングとは、そのような癒し効果があると思う。現代人のストレス解消には大変有益ではないか。

花の名前は情報でしかないが、適切に育て、さらに草花を枯らさないためには、知識が必要だ。私は残念ながら、しおれかけたとき、刈り込みは、害虫がついたときは、栄養剤はといった、こういうときはどうしたらという知識が不足している。知識と経験の必要性を感じる。その内容は例えば、太陽と土と栄養とか、養育のための三要素なぞと、とたんにつまらなくなる。だが、ガーデニング講座のようなもので、いずれきちんと学びたいとも思っている(「いずれ」などと思っているので、多分しないだろう(笑))。
とりあえずは、今年は昨年の5月末の美しい時期の状態に復元するのが、新たなプロジェクトである。

情報を逆に見ていくこと

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情報を逆に見ていくこと

ツィッターのタイムラインでも(ブログでもそうなのだが)、新しい順に情報が並ぶのは不満である。それまでなされた議論を最新の応答から古いほうへと見ていくと、ことがよく理解できないことがある。ツィッターの140字文字制約のため続きを複数回でポロポロと発言する人の発言内容を、うしろから解読するのは結構疲れる。ではツィッターで古い順に並べられると良いかというとそうでもない。現在まで追いつくのに苦労するし、古い情報は価値が少ないことも多い。だから、新しい順という見解は確かにあり得る。所詮、このネットにあふれているのは他人の人生、いわばどうでも良い情報といっても良いし、多くの場合は軽くブラウズすれば十分だろう。

一方、プログに関しては、それほど情報はバラバラではないだろうし、日付でジャンプできる場合も多い(posterousにその機能はない)。それでも一番古いところに一気には戻りにくいように思える。
ともかく望ましいのは、選択肢のあることである。私は今では殆ど見ないが、某質問回答サイトでも回答表示の順に関して同様に思った。しかし、そのサイトでは、回答を古い順から並べるということはオプション選択があった。サービス提供側でのそのための並べ替えの処理やネットワークへの負担は大変だとは思うけれど。

私は他者のブログに関しては、その人の最近の動向ではなく、書き始めた頃のココロ、原点を知りたい。最近の記述に関してはまだ続けて書いているのねという程度でよい。会の設立などでもそうだろう。設立の時の志の実現のためのココロを知りたい。手段の「金」が徐々に、後々に目的化してしまうのはよく聞く話だ。創業者の創業した当初の理念や志を直接、聞いてみたい。そこには貴重な「宝」が隠されているような気がするのだ。

損な世代かも?

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損な世代かも?

私の親世代は、追いつき追い越せの高度経済成長の時代に懸命に生きてきて、年金などそれなりの見返りを持ちながら生きてきたと思う。50代から団塊世代までの私達その子どもの世代は、親の権威主義に反発して生きていた人たちも多い。私もそのひとりである。親のようにならないように、民主的でありたいと思い、子どもたちにはと自由に選択肢を与えすぎた世代ではないか。その結果、その子どもの世代は、自由を満喫しているけれど、ものごとを自分で決められない。でも、何とかなるさと豊かな生活を謳歌する、お気楽世代を生んでしまった。

私の上の世代も下の世代も甘い汁を吸って・・という気分もある。でも、しかたない。個人差も大きいかもしれないが、世代のサイクルのもたらす運命なのだろう。私達は割が合わない世代ではないかとすら思うものの、過去のひもじい時代と比べるとはるかに恵まれていると思う。

切り替えをしない理由

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切り替えをしない理由

自動車保険の任意保険などでは、その切り替えは億劫である。同様に、インターネットサービスのプロバイダーとか、電話会社でもそうかもしれない。かつては選択の余地が少なかったからしかたなかった。選択可能な場合に比較検討するのが好きな人はいるが、あまり選択に関与したくない人にとっては疲れる以上の何ものでもない。だから、(私もそうだが)ひとたび意思決定した後は、あまり考えもせずに、継続手続きを取るのだろう。
このようなことは、直接的な人の関係する結婚生活や職業生活においても同様なのかもしれない。

人間は自分の性格を変えたがらない。その理由は、野田俊作氏によると四つあるという。それらは、人間は保守的だから、思い込みに凝り方決まっているから、個人と環境との相互作用の中で性格は安定してしまうから、自分の性格にたっぷり投資をしているからといった理由を記している。大いに心当たりのあるところだ。

うるさい車の見積もり

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うるさい車の見積もり

地域の天気を見る下にバナー広告が出ていた。
「10年落ち、走行距離10万キロ、ボディにキズ、売値がつかないと諦める前に、Webで相場がわかる!!」というゲームに乗ってしまった。そんなに経った車でも価値があるという。私の車も10年越えなので、価値ゼロだと思っていたので、必要なデータを入力して、見積もりボタンを押した。結果がすぐに見えるのを想定していたからだ。昨年秋に湯垢洗車をしたくらいであるので売る気は全くない。ただ、価値がいくらくらいかを少しだけ知りたかった。これがまずかった。

結果は「見積もりできません。こちらからご連絡をいたします」と表示された。これは卑怯なやり方だと私は思う。私としては電話にて連絡をして欲しくはない。結果をメールで知らせてくれればそれで良い。営業マンからの売り込みの会話を全く期待していないのだ。しかし、一括見積もりサイトとなっていたようで、いくつもの業者からその晩も翌日も電話が鳴りっぱなしである。結論としては、車を見ないと何とも言えないということだ。面白くない。そんなお相手をするほど私は暇ではない。

こういう姑息な、多数なところに個人情報を広がるのは怒りがわくくらいだ。意図して一括サイトに求めるのなら良い。私も太陽光発電のパートナー企業に見積もり依頼をしたのは、その心構えがあったからだ。それなく、いきなり多数からくるのはいただけない。ディフォルトで勝手にチェックがついていたのである。ツィッターでも似たような意図しないツイートになったものがある。「ご飯食べよう」というサイトだ。クリックしてみるだけを意図しても、個人情報を入力してボタンを押す求めるのは危険なのだろう。注意しなくてはならないことを学んだ教訓だった。

月末締めの楽しみ

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月末締めの楽しみ

月末締めの作業が2つある。一つはその月の入出金実績の整理、もう一つは太陽光発電量のとりまとめとアップロードである。前者は、年金モードになっても安心して暮らしていけるか確認するためでもあるが、今のところ問題ない。後者は目的は異なる。このPosterousのブログでは、太陽光発電のことは今後は書かないことにしたものの、関心は大なので、別のブログに太陽光発電の件に関しては引越すことにした(http://miketoyblog.blogspot.com/)。ただ何となくデータだけの記載でつまらないのだが、また考え続けることにする。

太陽光発電量は、開始した11月からの4ヶ月間、晴れの日が比較的多かったせいもあり、目標値以上の発電実績がある。投資回収期間が短くなりそうなので喜ばしい。雨や曇りの天気が多い予報では、今月の目標値までいかないかなとハラハラすることもある。そのように、ゲーム感覚で楽しんでいる。太陽光発電量を競うサイトもある。多くの人を集め、提供されたデータが集積されれば、新たな発見ができることもある。サイトの価値を一層高めようと言う戦略なのだろう。それは私は好ましいことだと思うので、私も自ら情報提供し、そのアイデアを創造したサイトに何らかの貢献をしても良いと思っている。そこに私の土地での発電量データをアップし始めている。ランクづけ判断好きなのかもしれないが、他者と見比べるのは楽しい(あくまでゲームとしてである)。

このように、一年の月、または日の変化を楽しみ、昨年との使用実績の比較をしながら生きていくことは、些細なことではあるが日々生き続ける励みにもなるのではないだろうか。

毎日書く原稿

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毎日書く原稿

ブログに掲載される個々の記事を「エントリー」というようだ。その私のブログのエントリー数は300を超えた。
新聞のコラムや随筆記事で、毎週原稿に追われて大変だというような記事も時々見かける。連載コラムも、執筆者は任務の期間を負えると、ほっとすることだろう。私は気楽にブログを書いているから、それでも毎日書いていると、週に一回の連載なんて楽ではないかと相対論で思ったりする。しかし、誤字があろうと意味不明な文でも(笑)、咎められることはなく、実にお気楽だ。新聞社の編集の人や株売買のサービス提供側の仕事は大変だと思う。永遠に終わることのない仕事だから。

毎日を意識し、日々のちょっとした変化に敏感であることは重要だと思う。今年はうるう年で、366までは書き続けていく。4年に一度あるこの特別なうるう日を、何かきらびやかなイベントのある大切な日にしたいものだ。何かアイデアがないかを、ツィッターで探してみよう。

支持するのも反対するも自由

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支持するのも反対するも自由

私の好きなAlfred Adlerの提唱するアドラー心理学は、英語名がindividual psychologyというくらいの個人の主体性を大切する「思想」を持つ心理学だ。個人の自由の軸に関しては、間違いなく肯定する。私の推察するにはリバタリアン的である。経済の自由に対しては「心理学」といっているくらいなので範疇外としていると思う。

以前にも記したように、アドラー心理学では、「自己概念」「世界像」「共同体感覚」で人々のライフスタイルは構成されるといっている。自分のことを好きだという自己概念があれば、いわば自分さえ良ければ良いという個人主義なのではない。世界を信頼しているということも必要だ。自分の所属している「共同体」に貢献しているという感覚を持つことも重要としている。その世界像も共同体も、各個人の認知次第である。生活していくと、個人と世界、共同体の間でいろいろと悩むみことも多いだろう。その時には、より一段高い(さらに広範囲な)共同体のレベルで考えることを推奨している。

現実の世界が、協調原理に基づく社会であれ、競争原理の社会であれ、条件さえ満たせば個人は幸せになれると教える。上記のように、個人の主観によって物事の見え方は変わり得ると考える認知論のためである。認知だから、個人を中心においているので、各自のとらえかた次第で、幸せになれる。だとしたら、一度きりしかない人生は、幸せになるを選択するほうが有利なのではないかというわけだ。もちろん、そうしないで不幸を選択するのも自由である。この思想は、こちらは相手はどのような思想でもOKし許容するのだが、相手はこちらはNot OKで許容してくれない場合がある。たとえば、選択のできない、あるいは嫌いな人から、選択のできる人は自分勝手だと主張されるので困る。

分類されること

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分類されること

小泉純一郎元首相、橋下徹大阪市長、経済学者の野口悠紀雄、プロガーのちきりんは、リバタリアンと言われる。Miketoyも同様なリバタリアンと分類されるとしたら、(彼らもそうだと思うのだが)そこにアイデンティを持っていない限り、嬉しくはない。もちろん、第三者が彼らを理解する枠組みとしての分類ならば勝手にしてもらって良い。しかし、私個人としては後づけのそのような概念を全面的にサポートしているわけではないし、本末転倒ではないかとすら反発する。分類によって強引にそこに押込められてまとめらてしまうと、自分が小さな人間になってしまったようで、気分を害するからだ(実際に小さいのだが・・笑)。

リバタリアンの特質として、「個人の自由」と「経済の自由」の2つの両軸ともに強く賛同するのが特徴とされていた。個人の自由の尊重に関しては、私は賛成ではある。しかし今までも述べてきているように、自由の尊重を尊ばない人もいると思う。それは、それで良い(個人の自由である)。
経済の自由、こちらは良くわからない。私は、経済の自由は反対ではないものの、軸にしなくても良いような気がする。経済の自由は、どちらかというと賛成だが、競争的社会に対して賛同できない点も少なくない。ともかく、決めつけられると自由が束縛されるので嫌なのだ。

私の教師の原点としての志

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私の教師の原点としての志

大学教師になって11年になる。私の教師に至る前の原点として、「強い個人」を教育したいという願いがあった。志の有無に関わらず、各教師は何らかの原点を持つものの、それは必ずしも明らかにされていないのではないか。私自身も今まで、学生に直接的にその原点らしきものを伝えたことはなかったなと思う。

現役世代の勤め人は、既得権益や諸々の制約に縛られ、また古い教育故の発想に限界があり、辟易していた。若者を育てられれば、事情は変わる。彼らが新たなパラダイムである「ネットワーク的な仕事の仕方」を学び、実践すれば、世界は変わり得ると思った。変革のためには、新しい感覚を持った自立した個人が不可欠と思っていた。(慶応大学SFCでは、それらしいこともしていた)

新たなパラダイム、新たな世界とは何か。それは、密室でものごとが決まる、あるいは理に叶っていない世界の対極にある。理のある開かれた世界である。マクロにはその方向に変遷するとしても、現実的にはそう素早く変わっていかない。その具体的なイメージとしての代替案が示されない限り、現状のような社会が続くだろう。だから当面は、競争的社会に逆らわず、個人はしたたかに生きていかねばならない。私と関わる若者には、勝ち続けるとまでは行かなくても、少なくとも負けてしまったら生活できない、そうならないようにサバイバルしてほしい。そのための力を養ってもらいたいという思いで人を育てること、それが教師として転職した原点にあった。ある意味では、エリート教育志向であったのだろう。

そのような私の世界理解の枠組みは、競争社会を必要なもの、あるいは所与としているリバタリアンの考え方と一致することに気づかされた。しかし、誰もが他の人より優れて勝ち続けることは不可能だ。競争に負け続ける人もいる。競争の場に立てない人すらいる。その人たちをどうするかまでは、考慮外であったと思う。今でも、一部に多少の軌道修正はあるものの、私の当初の思いは未だ残り続けている。超一流の人にならなくても良いが、チャレンジしてこの世の大海原で、もがいて欲しい。そのあとまでの保証は必ずしもない。縮み思考の若年寄が結構いるのだが、私の思いとしては、大学を卒業する22歳頃から、守り一辺倒のモードに入って欲しくない。自分で自分の行く末を切り開いていって生き続けて欲しいものだと思っている。

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