誰のせいでもない?

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誰のせいでもない?

よく、「あなたのせいではない。誰のせいでもない」と口当たりの良い言葉が使われる。そう言われると、ご本人は確かに楽になる。しかし、本来的に、そのご本人に帰することに関してまで、そうなるとするならば問題ではないか。集団無責任体制そのものとも言えるのではないか。
例えば、試験ができなかったとしよう。今の風潮は、怠けて準備を怠っていたとしても、あなたのせいであると咎められることはあまり多くないのではないか。努力していなくても、「努力していたのだよね。残念だったね」と相手を肯定するのはスタートであるといわれる。それなら互いに傷つかなくて済む。いつも、自分たちの外のせいにできる。
子育ての失敗でも同様だ。あなたのせいではない。運が悪かった。子どものせいでもない。親のあなたのせいでもない。悪者にされる対象があるとしたら、社会だというのだろう。しかし、それは誤りだと思う。基本的には、親が責任を持たねばならない案件だ。いい年した大人であれば、親のせいではなくなる。その子ども自身が、その結末に責任を負うべきである。

あなたは何に責任を持つのかと問いたい。自分は一切責任を持たない、社会が責任を持つのだというので良いか。それは大問題ではないかと私は主張したい。

社会的弱者

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社会的弱者

リバタリアンは、社会的弱者に冷たいといわれる。私自身も冷たいかもしれないとは思っている。一方、それと混同される「甘やかし」には反対である。自分勝手にやっていて成果がでない。アドバイスしても、耳を貸さない。

そのような人でも勝手に生きるのは結構だ。社会的排除をしたいとまでは思わない。強いものの論理と言われるかもしれないが、私が養うことは遠慮させてもらいたい。私とは同じ屋根の下で一緒には暮らせない。生きる態度や姿勢は重要だ。生き方の違いやその箇所が多いと、一緒に暮らすのは辛い。数年位ならともかく、永続的にというのは無理だろう。

納得いかないこと

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納得いかないこと

私はこの冬も寒いながらも16度で過ごした。生活に困っている人で22度で寒いと言い、暖房費をよこせといっている。私はつつましく、旬の食材を利用して食事は残さず食べ尽す。一方、生活に困っている人でも、食いちらかしている人もいる。そのような人たちがそうするのは勝手だが、節約した私がそうしてお金でその人たちを援助する必要はあるのだろうか。工夫している人が何も報わず、その配分が流れていくのは、どうも納得がいかない。果たしてこれが、公平なのだろうか。以前に麻生元首相が「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(患者)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と発言して物議を醸したことがある。アンダークラス論というのがあるが、私もあえて口にはしないのだが社会保障も場合によってはよっては行き過ぎになる場合もあるのではないかと思う。

年に一度の会食の機会

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年に一度の会食の機会

子どもたちと食事会をした。一年に会うのは、ほぼこの時一回だけである。
今回の会も私が主導しているものだ。年末年始もお盆もメールの返信もないので、このようにタテマエを作ってするのだ。特別なイベントなしに設定されることはあり得ない。今回が最後になるかもしれないと、奮発して帝国ホテルでの会食とした(でも、ランチタイム(笑))。
大変おいしかったし、楽しいひとときだった。来年はもうないだろう。

写真は、鴨のテリーヌ、季節野菜のスープ、ローストビーフ、特製デザート2種、その後に店を変えて、抹茶ミルクセーキと生菓子。

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業務遂行能力

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業務遂行能力

私は昔から業務遂行能力は高かったと思う(自慢である(笑))。私からすると、ほんの10分かそこらでできることを何時間も費やしてことをなす人がいる。そしてチェックしてみると、ひどい品質だったりする。私が直接やった方がはるかに能率的には良かったことも少なくない。しかし、私が中堅社員になろうとする頃、上司から言われたものだ。自分のできることを他者に委ねることは重要だと。似たような事は、野口悠紀雄氏も主張している。誰にも与えられた時間は24時間で平等である。それでも時間が不足する場合はどうするか。「時間を買う」のであると。

私も、管理するというのはそういうことなのだろうと納得して、その後は人の力を借りてコトを成すことも多くなった。ある程度のレベルの人ならば、それて通じると思う。そうすることによって、能力の伸びる人も少なくはないだろう。一方、通じない人も少なからずいる。だから、先の仮説は一般的には適用できないのではと思う。コトを放置し、調子に乗って甘え続ける人もいる。人を見極めてしなくてはいけないということだろう。上から目線になってしまうが、人を見極めるとは、人を評価するということだ。

もちろん私も人前で自慢はしない。しかし、本当に能力の高い人は、ブログでの心のつぶやきとはいえ自慢はしないのだろう。

嫌いな人

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嫌いな人

誰でも嫌いなタイプの人はいるだろう。私の場合、ひとつには理解力の乏しい人である。会話をしていて大変疲れるからだ。この種の人は、少なからずいる。もうひとつのタイプは、こずるい人。情報を意図的に隠し、場合によっては相手をだまそうとするような人だ。世の中に、こちらも結構多い。他者から見ると、私自身もその後者に分類されるのかもしれない。その両方、すなわち理解力が乏しくて、こずるい人、これは問題なく嫌い。だから、世の中には私の嫌いなタイプが多いという訳だ。だから友達が少ない(笑)。残りの、理解力があって、こずるくない人は、少ないのではないか。でも、そのようなパートナーを持てているので私は幸せである。 

人工物の話

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人工物の話

自然現象は、複雑でやっかいであり、わからないことも多い(自然科学)。ヒトの織りなす心も微妙だ(人文科学)。ヒトとヒトの絡む社会はなおさら(社会科学)複雑である。
では、人間が作り出した人工物はどうか。これは、その人工物(モノ)を設計したヒトがわかつている。パソコンをはじめとする電気機器はそうだし、自動車のような機械、建物や橋などもそれに類したものだ(工学系)。[とはいえ、簡単だと言うわけではない。念のため]

家庭の電気利用に関していえば、規定利用量を超えれば電気のブレーカーは落ちるというように因果関係がはっきりしている確定的現象がある。一方で、世の中には、確率的現象というのもある。確率は、一つひとつの個別の事情は関知しない。どうも私は、その考え方は好きになれない。だから、金融商品は買わないのだ。努力とは別次元の、何か得体の知れない偶然で決まってしまう要素もあり、コントロール感がない。投資で、ハイリスク・ハイリターンを好む人は、損をしても確率的現象と事態を受け入れるのだろう。私は残りの人生を手堅く、確定的に生きていきたい。でも、死ぬのは確率的かもしれないが・・(笑)

空飛ぶ自動車

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空飛ぶ自動車

無線LANは素晴らしい技術だと昨日に述べた。一方、すべての人が通信の仕組みを理解した上で利用することなどはあり得ない。自動車の運転と同じである。一般人としては、動きさえすれば良いのだ。彼らは原理に無知であることも多いし、さしたる考えは持っていない人がほとんどだ。故人であるスティーブジョブズが、ユーザーに要望を聞くと「空飛ぶ自動車が欲しい」という類のものしか出てこないといっていたという。

私のような素人は、せいぜいできたとして今あるものをくっつけて考えるとか、今の機能のまま値段が半額にとかいうこと程度しかの要望はないものだ。情報が不足しているということもあるが、多くの凡人にとってやりたいことはわからない。真に革新的なものに至っては、想像もつかない。
空飛ぶ自動車は、パーソナル飛行機なのだが、この手の無責任な要望で良いのならば、私もないわけでもない。思っただけでそれが文字になる機械が欲しい。マウスやキーボード操作なしに、または目の動きを追跡して動作させる研究もどこかでやっていたので、いずれそうなるだろうことは間違いない。開発現場は保守的な風土だとなかなか事は進まないが、そうでなかったとしても、どうやって夢物語を実現するかの見通しが全く立たない場合が多い。私もかつては商品企画をしていたが、アイデアだけの能天気なことをいうと、必ず現場や上司から詰めが甘いと叱られたものだ。

無線LANの素晴らしさ

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無線LANの素晴らしさ

かつてはネットワークケーブルなしでインターネットにつなぐなど考えられなかった。線なしでプリンターの印刷に出すというのも同様だった。マウスだってキーボードだって、それとパソコンをつなぐ線は不可欠というのは常識だった。それがWiFi無線で相互通信ができ機能するようになったのは、実に画期的なことである。当初は、無線接続のためには高機能パソコンのみ使用できた。拡張性のないタブレット型の機器では、キーボードもマウスもプリンターもつかないと言われた。しかし無線LANやブルートゥースにより接続ができるようになった。線なしで、複雑な通信のやりとりを適当にやってくれるのは、素人には本当にありがたいことで感謝に堪えない。そんなのは当たり前だという人種に、機械好きの私はケリを入れたいくらいだ(笑)。

地下鉄乗り換え

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地下鉄乗り換え

先日、東京メトロに乗り外部セミナーに参加する研究出張に行った。あまり都心には出向かなくなったので疎くなっているのだが、かつては地下鉄の路線の異なる乗り換えでは、切符を買い直す必要があったような気がした。改札出口をいったん出る必要のあることもあり、(私が知らなかっただけかもしれないが、少なくとも私は)、再度基本料金を払い切符を買い直していた。例えばお茶の水とか、上野での別路線への乗り換えの場合である。今では、同一と見なされる駅では、基本料金分の上乗せなしで自動的に精算され、得した気分になる。その料金は自動的に最も安くすむ経路にて精算処理してくれる。大変ありがたい。機械はというか、システムは、(クレーム対策とも思うが)性善説で処理するように思う。一方、かつての窓口での人間は性悪説で見ていたのではと思う。私は機械好きで、評価が甘いせいもあるからかもしれないが。

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