期待しても無理かな?

From Evernote:

期待しても無理かな?

今場所の千秋楽では白鵬が優勝したが、鶴竜は優勝決定戦まで健闘した。大関昇進後の相撲であまり心地よく思わないことがある。力士が昇進の直前まではは頑張る。昇進後は、だいたい一桁勝利で甘んじることが多いことだ。昇進直前だけ、頑張って、あとは手抜きのように思えて、いつも残念に思う。

最強であることが期待される横綱でも、時として相手に金星を与えるのはしかたない。それはたまに与えることだから良いのだ。大関も、横綱に準じて強いはずである。勝ち越しさえすれば、すなわち8勝7敗で大関の席は安泰というのは、あまりに、参観者をバカにした話だと思う。そんな状態が続いていたら、そもそも大関にはなれなかったでしょうに。瞬間風速だけで大関になれるとしたら、それはおかしい。その弱い大関が何人も相互扶助のもたれあいではと勘ぐりたくなる。今まで、何度もあった千秋楽で大関同士で勝ち越しを決める戦いとなると、いつも結果は見るまでもなく明らかであった。あまりに、ひどすぎないか。
基本的には強さの序列的になっているのだろうから、大関が横綱に負けるのはしかたないとして、自分より格下の力士になぜ、こうも負けるのか。人間だから、体調不調のこともあろうが、それが何場所も続くのはいかがなものか。プロとして続けることが恥ずかしくないのかと思う。

「大関にさえなれば・・・」という意識で、緊張関係が薄いのではないか。これは力士だけの問題ではない。管理・評価する相撲協会の公平・正義に関するシステムの問題でもある。私が関係者なら、大関は十勝五敗のラインくらいを現状維持のラインに引くことを主張すると思う。それ以下なら、関脇に陥落させる。そのくらいの緊張関係はあって良いのではないかと思う。

今回、鶴竜が昇進となった。若い新たな大関が出現することは喜ばしいことだ。彼には今までのような体質の大関のようになってほしくない。しかし、そんなことを期待しても無理かな?と思っている。

卒業式に思う

From Evernote:

卒業式に思う

卒業式典にまつわる話。私の勤務先では、国歌斉唱などはないので、愛国主義的大学ではないのだろうと想像する。
公立学校では、君が代斉唱で、起立して唱わないと処罰するとかで、大人げないなと思う。教師のほうも、そんなところで抵抗しないで、もっと本質的な教育分野で違いを出して欲しいと思うくらいで、私にとっては、あまり重要なことではない。でも抵抗する人にとっては、信念に基づく大問題なのかもしれない。

学生にとっての卒業式はどうか。11時開式だったが、遅刻してくる学生も多かった。出席すると言っていた私のゼミの学生の一人は欠席だった。式では見かけなかったので、卒業論文、卒業証書と卒業証明書を預かっているからとメールをしてみると、その日は研修だったので来れなかったと、後に返信が来た。

少し観点が変わるが、子弟あるいは親子の関係は、ビジネスの関係ではない。だから、失敗への許容度は、一度ならずと関係の続いている間はずっと維持される。企業などをはじめとする社会にさらされると別である。その企業が家庭的な風土をもっていれば、何度かは成長の過程として許されるだろう。また、典型的な外資系企業的な短期的成果を求めるビジネスライクな関係では、そうはいかないかもしれない。

さて話を戻して、私の学生時代は卒業式を出ないと卒業できないのではという恐怖感をもって出席した。でも、それは関係ないただの儀式なのだと後になって知った。入学式も同様だ。形式だけの式典なのだが、学生の意識に対しては、やっぱりなぁと思う。

2時に配送の弁当

From Evernote:

2時に配送の弁当

卒業式と入学式の時に、勤務先から通常は弁当が用意される。私は普段は手弁当持参なのだが、そのような時は持参しない。卒業式典が終わった12時半に尋ねてみると、弁当が到着していなくて、2時過ぎになるという。朝は5時半に食べていて、いつものランチは11時半くらいに食べることもあり空腹だ。その後の、卒業パーティなどのスケジュールもあとに控えている。私はパーティは参加しないとしたが、弁当をもらうためだけに、あと一時間半待つかというと、それは辛い。駅のラーメンやに行って食べようかなとも思ったのだが、あまりに空腹だったので、研究室の非常食を食し、待たずに帰宅した。空腹になると私は機嫌が悪くなる。このブログに悪たれを書くようになる(笑)。

いずれにせよ、これは弁当屋としては大変まずいことだ。想像するに、何らかのヘマをしたのだろう。おかずは用意したものの赤飯ができていなかったとか、食中毒が発生したとか、注文日を勘違いしたとか等々。きっと、それなりの言い訳はあるのだろう。でも、客としては言い訳を聞きたい訳ではなく、空腹が満たされるかどうかが重要だ。俺は客だぞ!と、もっと大切にしろと堂々と言いたい。利用者からすると、選択肢は他にもあるのだ。これが、重要な顧客での食事の席だったとしたら、致命的だ。契約解除では済まず、損害賠償までに至る場合もあるだたろう。
ビジネス関係は、互いの信頼関係が重要だ。あたりまえのことを確実にできる信頼度は当然ながら高くなければならない。本来は100%に限りなく近く、確実でなければならない。顧客からの信頼度が低い業者は、淘汰されていく。市場原理として、私はそれは当然だと思う(反リバタリアンは、これにも反対するだろうか?)。そのような市場原理としての顧客としての扱いをないがしろにされた感がある。2時過ぎに弁当を届けられも、私のように待ちきれずに帰ってしまった人も多かったろう。結果的に、届けられた弁当は大量廃棄になるだろう。大いなる社会的損失だと思う。

この3月は人の入れ替えかで、新人に教育がてら任せるケースもちらほら見かける。しかし、マネジメントは責任を持たねばならない。
私が責任者だったら、何らかのトラブルに遭遇したとしても、2時過ぎに弁当を届けるなんてことは、決してありえない。高々50くらいの弁当数だ。何らかの手を打って常識的なランチタイムの時間に間に合わせるだろう。パッケージが違ったとしても、どこからかの弁当屋で人数分を買い占めて、それを届けるアクションをするだろう。そして、注文主には徹底的に平謝りする。もちろん契約解除されてもやむをえないという思いで・・。相手が大目に見てくれれば、今後のビジネスは何とかつながるかもしれない。

一回の失敗程度なら、関係が深ければ、許してもらえるかもしれない。そのために再発防止策を立てる。そして、どの程度まで許容するかはケースバイケースだろう。ともかく、多少の緊張関係の全くない社会ではたまらない。私の子どものころの官中心で世の中が回っていた頃は、国鉄(現JR)に乗るのだって、切符を頭を下げて買わせて頂いて、さらにありがとうございますとお礼をいったものだ。今は、民間企業になって、逆に頭を下げてもらえるので、心地よい社会になったと思う。

学校への期待

From Evernote:

学校への期待

昨日は私の勤務先での卒業式であった。私は教育で飯を食っているにも関わらず、「学校ってたいしたことができない」のではないかと思っている。そんなことを言うとネガティブ思考だとか言われることがあるが、私はそうではないと思う。自分の組織を守る、その価値が正しいかどうかまともな議論をせずに、盲目的に何かにしがみつく方がよほどネガティブだと思う。自分たちの存在価値がなければ、それは発展的に解消して、新たな本当に価値のあるところに向かうほうが、より社会的にも建設的だと思う。

教育力の低下に関する現状認識に関しては、3つの観点から言及されることが多い。
「家庭での教育力」の低下は明らかであろう。(小中を想定しているが)親が子どもの面倒を見ない場合は、決して少なくない。一方で、良い学校といわれているところに入らせることに躍起になっている親との両極端である(後者においても、自分自身が熱心かは定かではない)。
「地域の教育力」も低下している。コミュニティスクールとかいっているが、あまり活発とは思えない。昔のような地域力を戻すのはかなり厳しい。子どもの教育の時期に至っていない、あるいは過ぎてしまった関心の薄い地域住民が深い関心を寄せるはずがない(私もリタイアしたら、その意識になると思う)。義務的に役割を全うしようとする役所や、子どもと直接に関係していない周りの意識の薄い人たちがいくら多く集まっても、たいしたことはできないのではないか。
「学校の教育力」はどうか。私は、総合的に見てかつてと比べるとはるかに進歩していると思う。教育システムや教材に関して素晴らしく良くなったと思う(昔の教材は上から目線で、酷いものだった)。現場の教師も熱心にやっている。(何をもって力量というのかを含めて)教師の力量に関しては、良くわからない。
ただ、家庭の教育力や地域の教育力不足を学校が担うとしたら、それはあまりに非力ではないかということを言いたい。学校関係者は、学校に期待されているのだから、それに応えなければならないという。現場には、ぜひ頑張ってほしいが、自らの限界をわきまえないと、現場の教師が消耗するだけで結果はついてこないのではないか。私の意見としては、前2つの家庭と地域の教育力に関しては悲観的だが、3番めの学校、少なくとも小中学校の現場教師は頑張っているようだし、今の程度で十分ではないか。いずれ、人々の集合意思の向かうようになるだろう。総じて言えば良い時代になっていると言えるのではないかと思う(このあたりは、人によって見解の大幅な相違があるようだ)。

花粉症

From Evernote:

花粉症

杉花粉の全盛時期である。私も外出時は、必ずマスクをする。毎週のゴミ出しのときはもちろん、来客の時も、マスクをしてドアを開ける。人と会話をするときも、(失礼かなとは思いつつ)余程のことがない限り、「花粉症が酷くて・・」と言い訳をし、マスクのままでご容赦願う。その花粉対策のせいもあってか、実際はそれほど重症ではない。数年前に、無対策だった時は、くしゃみが出て眠れない。鼻水がかんでもかんでもしたたりおちるという状態だった。それから気をつけている。
私は幸せいっぱいなのよという態度をしていると、一般的他者から、ねたまれる。花粉対策以外にも、そのやっかみ対策でもある(笑)。
バカらしいが、この間は深刻なふりをしなくてはならない。フリをしたからといって、自己成就的に深刻になることはない・・と思う(笑)。

ネガティブ人間

From Evernote:

ネガティブ人間

私のブログを振り返ってみると、ところどころネガティブな思いが残っているのがわかる。冷静になって読者の視点から見れば明らかなのだろうが、「かわいそうな私、ひどいあなた」のゲームを時としてしている。何らかの線を引いて、自分の向こう側にいる他者を区別して、批判している。ブログの控えのバックログ記事も、批判調のネガティブトーンのがものが多いことはそれを物語っている。
できるだけ、前向きな姿勢をと心賭けてはいるのだが、やはり本質的には、思考回路がネクラなのだろう。ものごとのクラい側面を批判的に見てしまう。もちろんそうありたいとは思っていないので気をつけて入るのだが、根っこの問題なのでやっかいだ。はたして、この癖は直るのだろうか。心底の問題なので、直らないような気もする。

しかし、このような私の思考回路はリバタリアン特有の癖かもしれないと知り、真にネクラなネガティブアンではないのだと知れて、気分的には明るくなった。知識を得たことによる収穫だ。

絶対に儲かる話

From Evernote:

絶対に儲かる話

「絶対に儲かる!」と人をだます人がいる。場合によつては許せないとすら思うこともある。とはいえ、(こういうと反発をくらいそうだが)だまされる側にも多少の問題もありと思う。そんな「絶対に儲かる」なんて、甘い話はあるわけではないではないか。少し考えればわかるはずだ。その仕組みを良く理解できないのならば、手を出さないことだ。理解できたとしても、相手からの巧妙なロジックにより騙されているかもしれないと慎重になることが必要だろう。でも、あまりに保守的になりすぎてもまずい。個人は冷静に判断できるように強くなければならない。

こういう私の発想は、やはりリバタリアンと評されるだろうなと思う。これはいわば、思考パターンのタイプ分けである。血液型占いと大して変わりがないかも?(笑)。実際はいろいろなバリエーションがあると思うので、そんなに深刻にならずにゲーム感覚でこのタイプ分けを楽しもうと思う。

責任を持つこと

From Evernote:

責任を持つこと

責任を持つことを避ける人が多い。少しでも楽ができる方へという風潮は昔からある。しかし、責任を持つことは楽しいではないかと言いたい。私は、大きな2つのプロジェクトの責任者を終わらせたばかりだ。もちろん楽しいことは少なく、辛いことの方が圧倒的に多い。でも未来が見え、最終的には完遂でき、充実感を味わえる。そして、予想外のところから感謝されて驚く。この醍醐味は、責任者をやったことのない人にはわからないことだろう。

責任をとることを逃げてばかりいては進歩がない。逃げることは癖になるし、生きている限り永遠に逃げられないこともあるのでは。逃げてばかりの結末は、場合に寄っては貧困に至る場合も少なくないのではないか。チャレンジしよう! 少なくとも若いうちは・・と言いたい。
もちろん責任を引き受けて、失敗することは多いだろう。それでも良し。その後に、同じ誤ちを繰り返さないように学べば良い。
再度のチャレンジできる機会は、以前とくべると、今日では、はるかに多くなっている。格差は決して固定化してしまう時代ではないのではないか。問題なのは、失敗をしても何も学ばない人がいることだ。その思考停止のパターンこそが、貧困から脱出できなくなる元凶だと私は思う。

死刑は社会的排除

From Evernote:

死刑は社会的排除

厳罰に値するような人を最終的には死刑で抹殺してしまうこと。それは社会的に排除する事になる。果たしてそれで良いかは議論のあるところだ。私も、よくはわからない。彼らが更正されるかという思いはある。でも、本当に死刑しか選択肢はないのだろうかということを。

以前に、学生たちに、ちょっとした罪に対してどうすべきかの意見を聞いたことがある。するとほぼ一様に、処罰すべし、死刑やむなしとかの排除をしたがる。どうして?と聞くと、何も応えられないのが常である。苦し紛れの道徳的ベシ論を言うだけで、考えることをしない短絡的な反応のように思える。私の身の回りでは、そのようなタイプの人は多い気がする。できるだけ、社会的排除を少なくして、皆が楽しく暮らせる社会になるとよい。そのようなことは可能なのだろうか。

自然災害に関しては別

From Evernote:

自然災害に関しては別

努力をせずにコトを成就しようとするのには私は反対したい。だが、努力とは別次元で、もらい事故や震災などに遭遇してしまうこともある。人為的な災害と自然災害は区別して考えたい。東日本大震災のような自然災害のため、人生が壊滅的になってしまうのではあまりに気の毒だ。何とか救済しないと行けない。災害対策を十分に考えなかったとしたら責任者は責められるかもしれない。しかし、誰にとっても将来は基本的には予測は不可能なのだから、やむなしとならざるを得ないこともある。

そのためのセイフティネットは当然なくてはならない。そのため、税金の一部は不慮の事態に備えて、政府に社会的使用を委ねる。全ての起こりうることに個人個人が注意を払い続けることは、人の情報処理能力からして無理な話だ。だから、政府は悪い使い方をしないだろうと信じて、公共的な役割を任せるわけだ。そこには政府に対する信頼がなければならない。個々の政策などでの批判はあるとしても、私は十分に政府は信頼に値するという世界像を持っている。世の中は、政府批判は異様に強いような気がする。彼らは、政府を信頼していないように見える。にもかかわらず、政府に助けを求める。私自身はその逆でありたいと思っている。
言いたいことは、セイフティネットを用意することと各自が責任を持って生きることとは、別なのではないかということである。

About