春探し

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春探し

今は朝晩の暖房をしないですむ良い時期である。日本は四季がある。夏は暑くてたまらない。冬は寒くていやになる。その間の程よい季節が春であり秋である。しかし、その期間は年々短くなっているのでは?と多くの人が感じているはずだ。
1月下旬をピークとして、1,2月が冬、4,5月が春、10,11月が秋とみなせるだろう。その季節への移行期の12月と3月は、次の季節へのうつりめだけれども異なる。春は温度が低い。しかし、陽射しは強い。この一ヶ月くらいで、時間あたりでも4割以上強くなっている。秋は温度は高いが、陽射しは急速に弱くなる。植物は記憶能力がないので数日前との比較はできない。「温度が低い状態で陽射しが強いこと」が、春のシグナルなのだろう。秋が好きな植物と春が好きな植物は、その違いがわかり、自分の出番を感じ取るのだろうか。

今年の3月は寒かったせいか、春がなかなかみつからなかった。しかし、下の写真のようにアスチルベは若葉の芽が急速にあちこちの鉢から出始めた(下は冬越ししたペチュニア)。期待していなかっただけに、若葉が出てくるのは大変嬉しい。まだ地味な葉だけれども、とても美しく愛おしい。自ら育てて年越しをしない限り、この感覚は持てなかっただろう。そのように春は人々の気持ちを優しくさせる素晴らしい季節である。
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選択のできない人

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選択のできない人

洗濯を例に選択を考えたい(言葉遊び?)。いつ洗濯機を廻しても洗濯処理のための電気消費量はほぼ同じである。ただし、電気料金は同じではない。オール電化で電気会社と契約をしていれば、時間帯によって電気の課金体系は変わる。昼と深夜では三倍くらいの差が出る。その利用時間帯を我々は選択できる。その時間に合わせて行動をシフトするのは、私にとっては、全く苦労がないことだ。それを面倒だといってしない人から、「あなたは選択できるから・・」と言われたくはない。

誰でも挑戦できる機会があるというのは「機会の平等」だ。一方、状況が同じなのに、支払い料金などの結果として変わるというのは「結果の平等」ではないことを意味する。なぜ機会を活用しようとしないのか、彼ら(例えば学生)の頭の構造を知るべく、努力したこともある。しかし、良く理解できなかった。私のいくつかの事例からの暫定的な結論は、彼らは「何も考えていないのでは?」ということだ。

「HEAR」ベースのライフログ 私のアクションリスト2012

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「HEAR」ベースのライフログ 私のアクションリスト2012

前回の一年三ヶ月の間は、アクションリストを更新しないで暮らした。電車の乗り換えなどの空き時間や乗車しているちっとした空き時間でも、必ずと言って良いほど見る。何度も見ていると、自己成就的予言により、多くのことは実現されるのだ。

今年の「HEAR」はこの四月に更新した。基本線は変わりない。
Hのホームプロジェクトでは、「癒しの庭の復元」と「すっきりとした内装」である。カーテン周りをすっきりとさせ、よりシンプルモダンで魅力的な内装に変えたい。
E 教育プロジェクトは、あまり変わりない。
A管理プロジェクトの一つの研究プロジェクトでは、毎年の発表と論文執筆と変わりなし。組織への貢献は、おろして「ケセラセラの人生」と変更した(組織への貢献を意識しないで生きるということだ。上司からこのブログを見られないことを祈る(笑))。
R関係プロジェクトは、新たな同窓会を一つ。これはまた別の機会に記すことがあると思う。

長続きしない「決意を新たにする」こと

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長続きしない「決意を新たにする」こと

昨日は年度が新たになったこともあり、私も新人だったときの気持ちで頑張ろうと決意をし、このブログにも記した。
しかし、「まっ、いいか」とその日の午前中のうちにその決意はめげてしまった(笑)。

大前研一氏が数日前に次のようなことをツィッターで言っていた。

「人間が変わる方法は3つしかない。1番目は時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。3番目はつきあう人を変える。この3つの要素でしか人間は変わらない。最も無意味なのは『決意を新たにする』ことだ。」 

まさにその最も無意味なことをしてしまったのだ。このような心構えを変えるのは大変難しい。私は会社員時代に上司から、今の自分の殻を打ちやぶれ、心構えを変えよと言われたことを思い出す。会社の中堅社員向け教育のAIA(心の冒険)というプログラムに参加するよう指示された。参加はしたけれど、何も変わらなかった。そうしたら、お前は頑固だと言われた(笑)。


変わらないといけないと言いながら変わらないのは、今のままでも、さほど困っていないということだ。だからそのままで良いと、私も他者から意見を問われたらアドバイスする。今の自分自身にも同じアドバイスをしたい。

引き締まった人生

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引き締まった人生

4月になって新年度が今日から始まる。今日の年度始めの出勤で思っていることは、私が新規にここに勤めた日のことを思い出し、新任の時の気持ちで振る舞おうということ。この4月に入学したばかりの1年生が卒業するまでがんばろうということを意味している。4年後はまだ定年前の私だが、この春の一年生とともにサラリーマン生活を卒業としたい。
楽な惰性で考えることを戒め、初心に帰って気持ち新たに臨む。
これで軸が決まった。あとは実行あるのみ。これで良い職業人生活だったと締めくくることができる。

絆の復活

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絆の復活

人同士の絆が薄れていると言われる。その回復のため村落共同体的な人間関係に戻れという主張を聞くことがある。絆の欠落と古い共同体の間に果たして強い因果関係があるかも疑わしい。私には、以前の日本社会にあった断ることのしにくい集団同調圧力が大変息苦しかった。その弊害を現代的な都市空間にて解消され、今は快適に過ごせている。今の現状に思わしくない点があるから過去に戻れという懐古的保守主義は反対だ。そのような保守的雰囲気が生きづらいというのは若い人たちも同様に感じているようだ(もちろん、好む人もいる)。私より上の世代は、何かというと、昔は良かったという保守主義は少なくないように思える。

簡単ではないかもしれないが、絆の希薄化に対する問題点を克服するための「新たな関係作り」が問われている。単なる復古主義ではない新たな自治会活動はその役を担っているのかもしれない。その旗ふり役である自治会会長の職を2年間勤め終え、本日の定期総会にて交代することになる。

民主主義と多数決

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民主主義と多数決

今や(日本において)民主主義は死んだのだという人もいる(社会学での定説らしい)ようだ。しかし、私は議会制民主主義はあると信じている。人々が平等に権利を持って、最後は多数決でものごとを決める。少数派には納得してもらうように努力をし、議論を尽くす。そうして世の多数に従うというのは、当然の論理だと思う。少数派の意見が通らなかったとしたら、その意見は大衆はにたいして説得力がなかったにすぎない。十分に議論せずに多数決で決めているとしたら望ましくはないのかもしれないが。意見が採用されなかった側としては、議論が不十分のままに強行採決されたと不満を持つかもしれない。全員一致などはある意味では怪しい?と思う。みんなが洗脳されているか、遠慮しているからではないかと勘ぐってしまう。

一方、議論をしたとしても、考えが変わる人は少ないのではないかとも思う。自分の考えが明確であればあるほど、他者がどう言おうと変わらないものだろう。だから、明確な立場のある人同士の会話では、議論が結果的には平行線で終わることも多い。国会での議論を見ていると、議論はただの時間つぶし、あるいは議論をしたというアリバイづくりのためだけかもしれないとすら思う。

いずれにせよ、多数決の問題は悩ましい。現場において相手に対して理での説得が難しい時に、どう対処して良いかわからないこともあるだろう。例えば、多数派がことを理解できていなかったり、やる気がない状況の時などの対応に私も困っている。

公平感

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公平感

人のライフスタイルに影響を与える因子としては、遺伝と環境があげられる。環境はというと、家族と、家族を取りまく文化がある。前者の家族には、きょうだいの影響と、家族の価値、家族の雰囲気があると言われる。きょうだいの影響では、長子、中間子、末っ子、一人っ子で、それぞれ特徴は異なるという。中間子は、親の注目や関心をたったひとりで独占した体験のない子どもだ。その劣等性に対して補償する必要があり、何らかの回答を出すことを迫られる。平等に関しては敏感に反応してしまうことが多いといわれるが、私もそうだ。子どもの頃に、兄はいつも新品、私は兄のお古ばかり使っていて平等でないことに不満を持っていた。一番嫌だったことは何かというと、小学校の時の家庭科の裁縫箱だ。外見も良くなかった。足りない器材もあり、それをもっていくのがとても恥ずかしかった。そんな時代だったとは言え、今の私から見ても、当時の自分はとても可哀想である。ともかく、平等に関しては敏感に反応してしまう傾向はあるけれど、格差是正とも関連すると、決して中間子だけの課題ではなく人類全体のテーマのようでもある。

(明日から2,3日はネットのつながらない世界に行きますので、ブログはお休みします)

修正主義者

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修正主義者

私達をとりまく現実は多くの問題を抱えている社会である。私自身は、多くの場合に現実から出発する修正主義者だと思う。問題を解決し、変革が必要な時に、あるべき理想の姿からアプローチする方法と、現状からスタートして暫定的に修正しながら変えていく2つの方法がある。ただ、その理想の社会を目指す際に、どのように変わるかわからないことが多い。イメージのつかないものを無条件で信頼するわけにはいかない。何か具体的にイメージしうる試作品を作り、現実を踏まえた上での議論をしたい。現実に立脚した実現可能な完成イメージを関係者に見せて、彼らの意見を聴き、少しずつ望ましい形に修正していく。そのほうが、少しずつかもしれないが理想というゴールには確実に近づくと思うのだ。ただし、この方法では、真に創造的なものはいつまで待っても出現しない可能性は高い。

こと複雑な社会現象にたちむかうには、現実から出発した方が進みやすいのではないかということだ。そうでないと、出てきた案の不完全部分に対して、あげあしとりばかりするようになる。日本社会の現実は、誰か特定の個人や政党をやり玉にして、批判ばかりしている社会のように見える(と、私もそういう他者を批判している)。私は、自分の考えを絶対的なものだと思っていないし、他者に強制しようとも思わない。相互の考えを尊重した上で、問題が解決され、収束に向かうと良いなと思う。

損失の埋め合わせをどうするか?

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損失の埋め合わせをどうするか?

私は株の売買で大損している。一方、大儲けをしている人もいる。これは不公平だろうか。私は不公平ではないのではないかと思う。儲けた人は、それなりのリスクを負っていたのだろうと考える。一方、大損した人は、何か学んだろうか。私の場合は、高い授業料を払って確率的現象に賭けるのはやめることにした。でも、ここは踏ん張り時と、やり続ける見識をもった人もいるだろう。そこは各自の判断である。損失する場合は、ご本人の判断の帰結なので自己責任である。何も学ばない人は、株式市場に参入しなければ良いと思う。何らのリスクもなしで、大儲けなんて、甘い話はあるはずはないのだ(でも、ニッチ市場ではあり得る。それはそのニッチを市場にしたアイデアを思いついた人への貢献として、十分な報酬に値するのではないか。それがリスクであり、そのリスクをとらない人が、儲かった人に対して不公平というのは妬みでしかないと思う)。

確かに損をした人は不幸である。生活が崩壊してしまった人もいるかもしれない。AIJ投資顧問のような年金運用問題となると、関係者にとっては死活問題だ。AIJの代表は虚偽の情報を流していたわけで、それこそ全財産を費やしてでも責任をとってもらいたいが、どうなるのだろう。一方、年金を委ねていた人の責任に帰することはできないと思うが、公的資金を投入ということになれば、皆で責任をということになる。

実際的ではないかもしれないが、次のようなことを思考実験として考えてみよう。
株の売買で得をした人は、青天井の報酬でなく、シーリングをかける。それで儲けをピンハネした金額で、大損した人に補填するというのはどうか。そうすれば実際の損益の格差を縮小するセイフティネットになる。そんなことをしなくとも、租税システムで所得に関する税金は課しているので部分的にはなされているともいえるのだろうが。いずれにせよ、現状以上の格差是正のための理屈を、この世界の人々が許容するだろうか。

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