ネットワーク不足

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ネットワーク不足

「生涯生活設計セミナー」では、将来展望をする上で、「健康」、「経済生活」、「生きがい」の三つは重要なテーマとなるとのことだ。その三番目の「生きがい」を考える上でのポイントとして四つの領域があるといわれた。「家庭」、「余暇」、「地域活動」、「仕事」である(私のアクションリストとも一部対応している)。

そこでも認識していることなのだが、私は仲間が少ないのである。リアルな世界でのネットワークが不足していると思う。多少は欲しいのだが、拡大したいとまでは思っていないのだ。ツィッターでも、100のフォロワーをを目標にという初期にクリアすべき目標は達成したものの、同様に今以上に広げたいとも思わない。最初からフォローして頂いた方には、多少「情」がある。生きがいと関係したリレーションは、ツィッターに期待できそうだ。ツィッターでの距離は、遠からず、近すぎず、濃密でないので私は満足している。今あるつながりを大切にしていきたい。ツィッターさえあれば定年後の空洞化を避けるためのソフトランディングはできると思う。ただ、仲間と、友達は少し違うと思うのだ。それはまた後日に記そう。

リタイアすること

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リタイアすること

私も職業人生活のゴールに近づいてきたので、リタイア後の生活の「生涯生活設計セミナー」に出席したということは前回述べた。類似のプログラムに以前に参加したことがあるのだが、今回は新たな職場でのそれである。私は逃げ切れる世代(笑)であるので、老後の経済生活は何とかなる。このセミナーでのポイントは「計画する」ことにある。ライフログは「その結果」である。私にとっては、計画したことは実行するので、区別はしていない。

その際に、HEARがアクションの代表的な四本柱で、同じくらいの比重で存在していたとするならば、アクション項目の半分が、リタイアのタイミングで突然なくな.るわけだから、アクションリストであるHEARの賃仕事部分の半分は抜け、空洞化するのは明らかである。すなわち、Eの教育はなくなり、Aの管理の仕事も一部を残して、ごっそりとなくなる。組織に貢献する必要がなくなる。研究室の管理は、自宅の書斎の管理移行する。ITは今までは研究費で購入できたが、それは自己負担になるので、あまり買わなくなる。学会も退会するだろう。本当は学問は好きではなかったのである(このことは内緒である(笑))。そして、基本的にはHホームとRリレーションのアクションリストだけになる。私はそのために、徐々にホームとリレーションの充実に重点をシフトをするべく心積もりをしている。

ダブル弁当

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ダブル弁当

昨日はいつもの職場と違うところで「生涯生活設計セミナー」を受講してきた(参加費3000円)。ご案内用の資料をあまり良く見ないで、弁当オヤジは昼の弁当を用意して参加した。その往きの電車の途中で「本セミナーは昼食込み」と書類に書いてあるのに気づいた。「ありゃー!!」であるが、もはや手遅れである。このところ、字が二重に読みづらくなったことあって、いい加減に読んですましてしまう習慣がついてしまった。これはまずいことである。
冷蔵庫のない外出先なので、帰りまでに手弁当は腐るかもしれない。普通の人は、そのようなときは手弁当は捨てるのかもしれない。しかし、私としてはせっかく愛情かけて作った弁当を捨てるのは忍びない。そこで、ついた9時過ぎに高校生のように早弁だ(笑)。昼に支給された弁当のボックスランチは、結構おいしかったので、写真をとっておけば良かったと食べ始めて気づいた。まだブログのための写真撮りが習慣化はしていないが、今後は意識して写真をアップしようと思う。

ひとりでお昼ごはんを食べること

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ひとりでお昼ごはんを食べること

ビジネスタイムで、他の人たちが談笑している中で、ひとりでランチを食べるのは誰でも嫌であろう。若い人はこの現象は特に顕著なようだ。もちろん私も例外ではない。何となく落ちつかないのだ。一方、ラーメン屋などなら気にならない。そのような場では、一人で食べに来る人が多いからだろうか?

今の環境は個室なので一人で食べる。これだと、気にならない。やはり、他者の視線がポイントなのであろう。
会社員の時は、同僚とランチにいくことが多かった。しかし、その同僚のランチ仲間が出張や、長期休暇などで時々、一人になることがあった。逆もあると思う。そうなると、何となくいこごちが悪い。別の部署の同期の仲間などに電話をかけて、どこが外で飯を食い、情報交換ということも良くしたものだ。しかし、先方も都合の悪いときもある。
少しの顔見知り程度の人たちと、ランチするほど親しくはない。気を使うのは嫌である。「どうしたの、今日は一人?」と言われる。「一緒にいい?」とこちらからいうこともあった。しかし、やはりその人は知っていたとしても、その相手の同僚と食堂に来ている。そこに入っていくほどの社交性はない(今振り返って思うと、そうしても悪くなかったかなという気もする)。

仕事の会話などで、そちらを優先することは、逆の立場ではあるのだ。若者が嫌がる気持は大変良くわかる。私も何度も経験したからである。たまに一回くらいなら良い。しかし、何度か続くと、「あの人は暗いから・・」とか言われそうで、避けたくなる。

結論的には、私の場合は一人で食べるのは嫌いではない。でも、それを良く知っている一人で寂しく食べているのを見られるのは辛い。できれば好きな人たちとランチしたいものだ。

弁当男子

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弁当男子

Clipped from: http://miketoy.posterous.com/
この10年くらい弁当男子ならぬ「弁当オヤジ」である。
ランチはよほどのことがない限り、手弁当を持参する。昼休みも仕事モードなので、ゆっくり食堂で食べる余裕はあまりないこともある。
一年の1/3、約100食は、少なくともこの5,6年は連日ほぼ同じメニューで、以下の写真(昨日の昼に撮った)に示すような冷凍食品中心のものである。塩分、脂肪、栄養バランスなどは気をつけてはいるが、本当は栄養士さんに、コメントをもらいたい。写真右上から冷凍きんぴら、妻作成副菜のニンジンオイスターソース炒め、朝にレンジするブロッコリーとミニトマト、冷凍たこやき、左側は、冷凍チャーハン、冷凍カルビミニハンバーグ、下右側がお茶と、左が豆大福である。職場に冷蔵庫と電子レンジがあるので、再度、温め直して食べる(朝レンジ解凍して、昼に再度レンジするということに不合理性を感じるのだけれど)。[写真もとは横だったのがブログでは縦配置になった。それに伴い、上の文章での位置の記述も変更を加えた]
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以前に「ライフログを記す」の記事で典型的な一日で示したが、朝はそのような状況なので、この手弁当モードは当面続くのであろう。

太陽光発電

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太陽光発電

停電対応と関連して、太陽光発電に興味を持ってきた。今、四社に見積もりをもらって比較検討中である。数年前まではまだ投資に見合ったリターンが見込めないということで、見送ってきた。今では損得問題ではなくて、非常時の自立のための保険として必要かなと思ってきたのである。エコな生活をしながらの自立運転は魅力である。1500wという自立発電能力は、冷蔵庫や電灯、ケイタイの充電など、最低限できると何とか生き延びられそうだ。電気温水器の三日分の水の備蓄と、この電気でなんとかなると思う。とはいえ、雨の日や夜になると電気が供給できないので困る。夏の夜は暑いので、冷蔵庫が止まると、冷凍食品がだいなしとなるので大事だ。蓄電機能があれば、何とかサバイバルできそうだが、値段が馬鹿高い。いずれ、この課題は解決されることを期待したい。

若い息子の世代の営業マンが一生懸命、売り込みにかかる。このような新しい商品は、新しい世代を中心に任せたい。世代交代を感じられるひとときであった。その移り変わりの一面を見られることは楽しい作業だ。

エバーノート1.5

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A エバーノート1.5

このところ、エバーノートに関する記事を書いていない。その理由は、エバーノートが空気のような存在になってきて、意識しないで使うようになったためである。パソコンの電源をあげるときは、エバーノートのタスクを後ろに必ず控えるようになった、今ではオフィスソフト以上の必需品となっている。

今使用中のWindowsのエバーノートのバージョンは4.4.1である。一方、私の使っているサブマシンのT社のアンドロイドパソコンはエバーノート1.51のようである。別のパソコンで入力した既存のノートを修正しようとすると、古い版のデータをもってくるようで、うまくいかないことがある。ソフトウェのバージョンが相違しているためか、どうも同期がうまく機能していないようである。すると、Conflicting Changesとなり(ならないこともある)、本格的には使えない。しかし、機械が電源オンで待ち時間は少なく使える。軽いことと、このお手軽さは高く評価している。私はオフラインの使い方が多いので、新規ノートを書くときだけ、そのサブマシンにて使っている。そのときはノートの保留というのを使うわけだ。ネットに接続して動かす時にアップロードしてくれる。同期は大いに問題なのだけれど、保存しなくても頻繁にディスクへの書き込みをしている。ファイル保存前にシステムが固まって、再入力をすることがないのは大変快適だ。時々、右下にあるはずのノートウィンドウが画面が左上にも出て固定になってしまう問題がある。使い勝手は悪くなるが、入力したものが飛んでいったりはしないのは助かる。システムの再起動をかければ動くので、この程度なら、許せる程度だ。

私はT社の機械に前向きな書評を書いたことがある。その古いエバーノートのバージョンには満足してはいないが、ないよりは良い。だましだまし、使っている。このところ、マウスを接続しなくとも、キーボードで自分のしたいオブジェクトを選択できるようになってきた。

古いバージョンのソフトウェアでも十分であることは多い。オフィスソフトに関しては、私はMSオフィス2000で十分である。最新版のソフトとも、互換性がそこそこはあるので、あと数年は使い続けると思う。エバーノートの1.5も、こんな感じて、このサブマシンが壊れない限り、だましだまし使い続けることと思う。

ツィッター・フォロワー利用者の行動性向を想像する

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ツィッター・フォロワー利用者の行動性向の想像

ツイートのタイムラインからすると、大事件が起こった場合でも私のメッセージは「なぜ今か?」ということに関係なく、ただマイペースでブログを書いているという印象だろう。そのような人は私一人でないのを確認できるのは心強い。いすれにせよ、ツィッターのようなリアルタイムのそれと、1日が終わって記す活動日誌的なブログとの質的な違いなのだろうか。

ツィッターでフォローしてくる人は、多分、人とのネットワークを張りたい人なのだろう。二週間あまり前に私へのフォローが一日に100通以上と瞬間風速で増加したのは、おそらく、ツィッターのおすすめユーザーか何かに載ったのではと想像する。それ以来、毎日つぶやくことをやめたら、途端にフォロワーは減ってきた。今では、フォロワーのない日のほうが多い。それらの現象から推察すると次のようになる。ブログを必ずしも見ずに、フォロワーになる人は、将来仕事で役に立つかもしれないとかいう発想なのではないか。

ツィッターのアクティブユーザーでないと、フォロワーの数がどんどん減っていくことは少し寂しいことではある。しかし私の目指す方向性とは少し違うし、それを目的としていないから良しとする。私もまとまったことを記す内容が乏しくなってきたら、ツィッターで、気まま思ったことをたくさんつぶやくことにしよう。今は、その時期ではないので、当面は一日一回のPosterousのブログだけを続ける。ツィッターは週に数回、ブログ更新のお知らせをする程度iにして、折り合いをつけることにした。

ツィッターしている人は、わざわざリンク先まで見ないのでは?

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ツィッターしている人は、わざわざリンク先まで見ないのでは?

ツィッターの他者のつぶやきを見ていると、みなさん結構ライブで生きているなと思い、それはそれで大変面白い。タイムラインの動きも面白い。いつも同じころに、自分がフォローした顔がつぶやいている。それを見ると、今まで全く面識もない彼らに親しみがわいてくる。顔写真のアイコンであると一層、親しみが増す。相変わらず元気だねとか、このごろ書き込みないけど、どうしたのかなとか思う。 

逆の立場だとどうか、それも問題である。下の図のようにPosterousの管理画面で、ページビューは見られる。その数のうち、2,3は必ず私のだ。ブログをアップロードした後に、私のイメージ通りレイアウトされているか確認するためだ。別のパソコンから、自分のページにアクセスすることもある。すると、この同じパソコンかせでもページビューカウンターはまたあがるのだ。それらのことから次のように考えられる。妥当な仮定かどうかわからないが、フォローは100人、ブログを見て頂いているのは2人とする。そうすると2 %の人が閲覧 ということになり、結論としては、私のブログはほとんど読まれていないのではと推定される。このようにログ情報を見ると、厳しい現実が理解できるのだ。フォロワーにメッセージを伝えたいのなら、ツィッターの本文に書くべきということを示唆しているのだろう。

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なでしこジャパンは

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なでしこジャパンは

(「悪魔のささやき」の続き)
では、なでしこキャプテンの澤さんやイチローにも悪魔のささやきは同様にあるのだろうか?という話になる。それは結論からいうと、ささやきは当然あるだろうけれど、それをはねのける「若さ」があるゆえではないかというのが私の意見である。彼らは思考パターンとして、ネガティブなことは考えていないだろう。それは私には「若さ」として映る。

年令の「若い」うちから、悪魔の囁きに耳を傾けてほしくない。少しでも楽なほうへのシフト、他者からの提案に対する否定、すなわち、だって・・で忙しいもん、でも・・できない、最後はどうせ俺なんか私なんか、やったって無駄、といった「D言葉」の連続は避けてほしい。ネガティブワードだ。そのような言葉を多発する若年寄が私のそばには多い気がする。
私は教師のせいか、学生達がそのような態度をすると大変腹立たしい。何もしないで、否定ばかりして自ら行動しない。たから何も成果が出ない。勉強を教えている時に、そのうち少しの困難や見解の相違に出くわしただけで、いとも簡単に放り出したり、相手をシャットアウトするのだ。そのくせ、最後は自分の判断の結末に責任を取らず、最後は相手に甘えるのだ。これは大変まずいことだと思う。

私も人のことは言えない。若いときは、とくにネガティブであつたと思う。小さくまとまろうとばかりしていた。でもね。若いうちは、失敗は許されるのだから行動をと言いたいのだ。私のできることは限られている。相手を変えることはできないから。しかし、教育というのは相手の行動の変容を試みることでもあるので悩ましい。

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