「新自由主義」を教科書で理解する

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「新自由主義」を教科書で理解する

「新自由主義」、この言葉は関連した研究分野の思想的な背景を認識する必要があり、数年前に出くわした。その考え方を理解するのに私は大変苦労した。しかし驚いたことに、この言葉は、今どきの高等学校の政治経済で出てくるのだ。高校は大多数の人が進学するから、その中で政治経済を履修する人は多くはないかも知れないものの、目覚めていれば、その言葉の片鱗程度は知っているはずである。 私は高校の教科書を一通り入手しているが、実に有益な情報が多いのがわかる。

このように、社会の動きを教科書は数年遅れではあるが改訂され、新たな時流に即した内容が盛り込まれている。教科書執筆者は著名な人も多く、大変要領よくコンパクトにしかも平易に書かれている。新しいことは、新しいテキストから学んだほうが効率的である。難しい本を購入する必要はない。中学や高校の教科書は、かつてのそれと比べるとカラーでとても読みやすくなる工夫が随所になされていて、実に頼もしい限りだ。これらは政治経済に限ったことではない。私の関心が、もっぱら「生活」に基盤を置いているからかもしれないが、家庭科の内容に関しては特に有益だと思う。さらに、理科や保健体育などに対する知識も同様で、この世の中の標準的な大人の持つ常識以上の水準ではないか。小論文の書き方や発表の仕方など、大学で扱う内容としてもおかしくない内容まで教科書に盛り込まれている。したがって、親世代が学んでいないことまでも子世代は学んでいる可能性がある。自分が過去に学んだ頃の類推で物事を安易に語ってはいけないということであり、それは、今学んでいる高校生や大学生も同じことである。学ぶことを学校時代で終わりにしないで継続してほしい。

リベラルな思想に合うアドラー心理学

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リベラルな思想に合うアドラー心理学

私の波長に合う合理的・行動主義的な考えを支えるもので、気に入っているひとつにアドラー心理学がある。知名度はそれほど高くはないかもしれないが、アルフレッド・アドラーの提唱した心理学(Individual Psychology)である。本流の私の専門分野以外にも(活動的ではないものの)アドラー心理学会にも入っている。「XX学」は科学、技術、思想とわかれるとしたら、思想までを扱う心理学だ。これは、無味乾燥な学問とは異なり、大変珍しく、また面白い(アドラー心理学は、自らの思想を「真理」だと主張しているわけではない)。

この6月ころに、ゼミ生の指導で学生に学会の話をした。すると、「先生、学会って創価学会みたいなもの?」と聞かれた。新鮮でびっくりする発想だが大変に面白い。確かに創価学会のほうが知名度は高いが、あれは「創価学」の学会ではないのではないか。アカデミックな学問的立場は、宗教のようにあるの特定の人を絶対視したり、絶対的価値を求めるのでない。科学的といったらよいか、再検証可能性は求めるのが、より多くの人に適用できる一般的「真理」を追求するものこそが学問だと思う。

リベラルな行動主義

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リベラルな行動主義

私自身、創造的なものを作り出す能力の高い人間ではないことは十分に知らされている。ただ行くべく方向、何が今後の主流になるかをかぎわける臭覚は、多少は備わっていたと思う。また、腹をくくるべきときは、進んでくくる潔さを持つ圧倒的少数派であることもあるだろう。それらは臭い言葉でいうならば、誇りなのかもしれない。私の亡き父親は進歩主義者だったと思う。しかし、行動までしていたかは知らない。私も父のDNAを受け継いでいるのだろう(こんなことを書くと、ずっと煙たかった父親が身近に思えてくる)。さらに付け加えるならば、私は行動主義を貫いている。それらの帰結が私の人生を形作っている。

リベラル派であること

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リベラル派であること

私は複数の他者から何度か「miketoyはリベラルだから・・・」と言われたことがある(昔からその種のことを言われていたような気もする。)その人たちが、どういう意味でリベラルという言葉を使っているのかわからない。「各自の自由を尊ぶやりかた」というような意味か進歩主義と想像するが、一方「そんな理想論では、うまくいかないぜ」というニュアンスもある。ここでは、一般論としての言葉を定義してもしかたない。相手の「リベラル」の言葉の解釈の仕方の問題だから。各自で教育を含めた学習の偏りはあるだろうし、そこまでつきつめて詮索したくはない。ともかく、いつも必ずしも誉めているわけでもないようだ。私自身は少なくとも保守主義、コンサーバティブではないと思う。しかし、文化的にプログラムされているところでコンサーバティブなところは決して少なくないと思っている。

アクションリストの変更

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アクションリストの変更

311東日本大地震のように新たにとんでもないことが時として出現する。私個人の場合は、白内障になるとか、ブログを始めるとか、年初は微塵だに想定していなかったこともそうである。アクションリストの棚卸しを現在するならば、それらは重要な項目になる。このように半年のの見直しサイクルにて変更を加えるのだ。

両方ともホームプロジェクトである。ブログはとりあえずあと数?ヶ月は「書き続けること」とする。
白内障は治療を完治し「新たなメガネとの安定したおつきあい」をするということだろう。
放置したままでは実現はしないものの、意識して行動していれば、その通り実現されるというわけである。
リストから除外したものもある。当初立てていた「新たな機会に挑戦」というのは、諸般の事情にて下ろした。しかし、別の角度からの可能性を追求できそうなので、言葉はそのまま残し、内容的にはそちらにシフトする。このように、事態が少しずつだが、ことばの意図したほうに変化してくるのが不思議である。書くことの効果だと思う。

居直ってトラバーユした元会社員

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居直ってトラバーユした元会社員

無能な上司は、トップの発言である水戸黄門の印籠を振りかざされるとグーの根も出ない。真正面から反論できないから。私は理不尽な上司に対して、そのトップの発言を引用して、暗にプレッシャーを与えて優位な立場に立つこともあった。だから、煙たがられていたと思う。

その頃は、私はすでに会社には心はなくなっていたので、上司を上司と思わなくなっていた。だから、直属上司にへいこらせずに、お客さんを向き、そこでは高く評価されていたので楽しく仕事ができた。しかし、内部の論理を優先する強圧的な態度の上司には、腹が立った。私は根っからタテの関係の「上司」という存在は大嫌いなのだと思う。自由にヨコの関係で生かせてくれよ。そうすれば、やるべきことはやるから、ということで、人並み以上の仕事はしてきたつもりだ。でも、会社員としての生活は、やはりつらかった。勝負は嫌いではなかったが「ビジネス」はあまり好きでなかったのである。

振り返って今考えると、無能な上司も多かったかもしれないけれど、それは私が小さな器量しかない人間だった証しでもある。今では、ひとりの「人間」として、もう少し温かく見守ってあげても良かったかなとは思う。その上司を味方にできなかったことによって、私は見えないところで多くの損をしていた可能性を否定できないのだ。ずる賢しこくなってきたということかもしれないが(笑)。

半年でのアクションリストの入れ替え

夏休みも終わり、今日から仕事である。毎年すべき重点行動は異なってくることがある。そのために、半年でアクションリストの見直しをして、一部の入れ替えをする。やると決めたアクションリストの項目を、安易に放り出すのもいけない。しかし、こだわりすぎるのもいけない。私の場合は、時間の余裕のある年末年始と、この9月初めの二回のアクションリストの入れ替えを行う時期になった。今回も「HEAR」の構造を維持しながら、項目の入れ替えでいこう。

このような構造的考えの原型は、約20年前の会社員生活の頃にある。おちぶれかけていた会社の立て直しにきた外部出身のCEOが、Win/Execute/Teamと三大目標を掲げ、それをもとに行動せよと、社員にのたまったことをヒントを得ている。時として遭遇するダメ上司を扱うには、このような水戸黄門の印籠を掲げると強い。無能な上司を持つ現役の会社員には、そのような戦略をお勧めしたい。

傲慢だとは思うが

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傲慢だとは思うが

この数回の自分自身の記事を見ると、現状がベストだという、やや傲慢と思えるロジックの展開と思われるかなという危惧がある(実際は、多少はあるだろうと
思う)。しかし、意図としては、そうではなく、与えられた現実を素直に受け入れると、幸せが見えてくるということを言いたいのだ。不満な箇所はあるのならば、行動して直していけばよいではないかという考え方である。
実際、私自身も不満に思うところは決して少なくない。ただし、自分で手の打てるところは、速やかに対策を打つ。無力なところや見込みのないことは、そのまま受け入れる、あるいは自分自身が納得できるロジックを組むということだ。再選択可能だとしてでも、それをまた選ぶということができれば、幸せそのものだろう。

しかし、このようなことを言っても理解してもらえない場合がある。そのような理解しあえないことや通じない人もいると思うので、それはそれでも良い。徹底的には追求はしない。わかってくれる人が、この世の中に一人でも身近にいれば、他の人から何と言われようと良しとする。これは、自分さえ良ければよいという意味ではない。当然のこととして社会悪をしていないこと、社会に建設的であるという前提を忘れてはならない。

考え直し

私の息子達は、もし私が突然死したしても葬儀に来てくれないと思う(泣)。その知らせを聞いても、「あっそう」と人ごとで終わるのではないか。私一人がそうなった時は、妻が措置してれるだろう。妻の時は、逆に私がするだろう。問題は、二人同時にさよならになった時だ。

彼等がの生活能力の欠如は、ほぼ明らかである。そこで、こう考えることにした。今のままでは、そうかもしれない。但し、時代とともに人は変わる。これから、いつの日か気づいてれるだろう。その時には、心置きなく彼等に任せよう。それまでは、私たち自身で何とか頑張らなくてはならない。そのようにボケないように「生かせてくれて」親孝行しているのだ。見えざる手に感謝しなくてはならない。そのように、私の長生きを応援してくれているのだと意味付けすることにした。先は長い。

中気密中断熱の家

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中気密中断熱の家

私の家は、中気密中断熱の戸建である。結論的には、これが現在では、価格性能比的に最も優れているのではないかと思うのである。確かに、一年中、また四六時中、ソーラーハウスのような快適な空間が保てれば、それは大変に望ましい。ただ価格の差額分を考慮すると、そこまでは現時点で必要のない場合も(南関東では)多いのではないか。

中程度の気密と断熱性があれば、夏に冷えないわけではないし、冬も温まらないわけでもない。気候の厳しい期間は、一年で限られている。局所暖房の原理と同じで、必要な時に必要なところにだけ、冷暖房をかければ良かろう、そのほうが経済的ではないかという考えである。
人のいないところで、いないときにまで暖房をすることは私は不満である。コスト的には、安くなる場合もあるかもしれないが、環境にやさしくないではないかと思うのだ。

仮に、厳冬期の暖房増加代を一月1万円と想定し約4ヶ月間、夏の冷房代増加を一月5千円で約2ヶ月間とすると、年間5万円増である。30年住むとすれば、ライフで150万円である。高気密高断熱にするるための家の差額は、その数倍は変わるのではないか。また、高湿度は防げないわけでエアコンは装備されるとなれば、素直に必要なときだけエアコンのお世話になるほうが望ましいのではないか。

とはいえ、このごろ翌日は10度以上の温度差というこは稀ではなくなってきている。異常気象で、四季を通して寒暖の差が激しくなってることは気になる。すると、一年中、快適な家の価値を実感する場が多いことは事実だ。だから、検討に値するテーマではあるものの、現時点で中気密中断熱は妥当な選択であろうと、自分自身を慰めている。

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