私は冷血人間か?

From Evernote:

私は冷血人間か?

私自身は冷血人間ではないとは思っているのだが、もしかしたら他者からはそう思われているかもしれない。

「為すべきことを為せ」と人にあたる。役割を遂行したうえで楽しめというのは、私が今は亡き親から幼少のころよりプログラムされている行動原理なのだ。身近な人間関係で、役割を遂行していない現場に直面すると、私は不機嫌になり、その人につらくあたることがある。社会は共同生活だ。それでは社会は回らないだろう。共同体のために建設的であってほしいとの思いからである。しかし、これが正しいかどうかは怪しい。この考えには限界を感じている。それについては、明日に記そう。

自分と相手とどちらが評価するか?

From Evernote:

自分と相手とどちらが評価するか?

昨日のブログの続きである。
私はアドラー心理学の考え方をに共鳴して、その線を基本に生きているつもりである。でも、アルフレッド・アドラーに盲信しているわけではない。「本当にそうか?」と思う箇所もなくはないものの、全体的にかなり良い線を行っている合格水準の考え方だと思う。こんなことを言う私は、決して相手(アドラー派の人たち)に合格を出せるような上から目線の立場にいるわけではない。逆に本当に理解しているかを、その種の人たちからなる協会などから試験され、合格しなくはならない修行の身でもある。

少し視点は変わるが、その合格水準をクリアすることについて。別に試験を受けているわけでもないのだが、もし免許皆伝で合格させていただくとしても100点満点ということはないだろう。世の中でこの種の認定では、みな似たようなものと思うが、8割理解していれば、合格のレベルと思う。だから、私が先に述べたように「本当にそうか?」などと生意気なことは言えるほどわかってはいない可能性は十分ある。頭でわかるのと、実践できるのとの間には、大きな溝があるからだ。頭でしかわかっていない中途半端な断片的な理解だからこそ、クリアに世界を見通せないで、不平不満を言っている可能性を感ずる。
例えば私に求められていた報告書が80点ということは、2割は誤りや不十分なところがあるということだ。2割も誤りのある会社の決算報告書を世の中に出して、合格水準だから良いでしょうなんて決して言えないし、教師の言うことに1割でも嘘があることは許されないだろう。プロたる社会人であるならば、100%を目指さなくてはならない世界なのだと思う。
しかし、これらは「不完全を受け入れる勇気」とは、必ずしも矛盾するわけではないのだ。

自分なりのフレームワーク

From Evernote:

自分なりのフレームワーク

若い頃は自分の主張を出すことにためらいがあった。他者から叩かれることを恐れてである。自分が無知であることが暴露されるのも嫌だった。ものごとを深く考えてもいなかったし、考えようともしなかった。

今も基本的には同じなのだが、わきまえられるようになった。不完全でいることを受け入れる勇気が出たのである。だから、自分の領分でない分野にもこうしてブログを書いている。勘違いもあるかもしれないし、嘘もあるかもしれない。たとえ、そうであったとしても今なら、「そうかぁ、俺のミスだわ。ごめん(笑)」ですませられるようになった。自己正当性を主張すること、その主張にしがみつかないための「隙間」ができたということだろうか。これはほんのわずかな隙間でしかないのだが、それがあると生きていくのが大変に楽になる。

生きていくうえでは、己の持つ理解のための枠組みとしてのフレームワークが関連してくる。自己認識、世界像は複雑に絡み合っていて、その全貌を把握することは容易ではない。しかし、だからヒトの理解は容易ではないというのは事実としても、暫定的にでもおく。すると、それに修正をかけ、改善しながら日々に対処できる。基本的な世界観を一切出していないと、やはり根なし草になってしまうのではないか。以前にも少し触れているのだが、私の暫定的世界観を次回に述べてみる。

ブログを書きつづけること

From Evernote:

ブログを書きつづけること

書くためのネタを考える続けることは大変に意義がありそうだ。しかし、やはり連日というとネタが枯渇してきてくるかもしれない。その際に、他者のツィッターのつぶやきを見ると参考になる。「おはようございます」だけの人もいる。生きていることもわかるし、その時間にツィッターに向かったのだなということがわかり、それだけでも情報であり、何もないよりは良いのかもしれない。「今日のXXの朝です」というので写真が添付される。これもきれいで面白い。ツィッターも、ひとたび書かなくなると、書かないでも良いかなという気になってしまう。

研究者の書く論文も同様である。毎年論文を生産するときにそう感じる。私たちの場合は、書かないからといって直接的に強く咎められることはない。自分自身の良心の問題だ。書かない人は、それなりの主張をがあると思う。「あんな程度の低い論文なら書かないほうが良いのだ」と影で囁いているかもしれない。私の方の本音としてはは、「程度の低い論文すら書けないのは能力がのない人の言い訳だ」と、相互に批判しあうのだ(笑)。

だから、私は紀要論文を書くぞと宣言するのが4月。原稿を本格的に書き出すのが暑い夏休み。そして、9月末に提出、年末に発刊というスケジュールだ。前に勤務していた大学では年に2回執筆のチャンスがあったから、年に2回書いていたが今は1回なので1編である。定年までにあと数回なので、数回の機会である。パーキンソンの法則ではないが、論文を書く回数は環境によって決まってしまう。この与えられた機会を大切にしよう。

小学校での作文

From Evernote:

小学校での作文

作文は大嫌いだった。誰のために書くのかが不明だったこともある。それが評価する人のために書くのだとということがわからなければ成績は良くならないのだろう。中学くらいから、作文を書く頻度が減ったのでうれしかった。社会人になると全くなったので天国だ(笑)。評価する人のために書くとなると、ごますりになったら、ウケ狙いになったりする。私の場合は教師の評価に疎かったので、自分勝手に書いていてあまり成績は良くなかったと思う。試験のできる人は、採点者や問題作成者の意図を容易に推察する。そのような想像力は、社会の現場では重要だろう。だからと言っては言い過ぎかもしれないが、国語の文章題のできる人は、コミュニケーション力に優れていると思う。一方、それができない人は、文章で何を言っているか理解できないし、微妙なところまで読み取れない。感受性でもあるかもしれない。

先に述べたように、私自身が若かりし頃はそのあたりで損をしていたことが多かったと思うのだ。だから自戒を込めてというわけでもなく、基本としての国語力を高めることはもっと追求されて良いのではないかと思う。私は大学の教師なので、レポートを求めることもあった(今はしていない)。その時には、私(教師)のために書くのではなくて、(卒業論文もそうなのだが)レポートの宛先は自分自身のために書くもので、その写しを私にちょうだいねと言っている。あまり見る気もないよということだったりして・・(笑)。

ピークを超える体験を重ねること

From Evernote:

ピークを超える体験を重ねること

9月末はいつも超忙しい。昨日は論文の締め切りだった。今日はある学会で発表がある。今週から始まった後期の授業の準備がある。それに加えて、この水曜にプロジェクトの外部向け会議で大変だった。もう一つ、別の学会発表する原稿提出が三日後、学内教育研修の申請書と付属資料を完璧に揃える〆日が今度の金曜。その翌日の10月1日に35周年の同窓会の幹事をと、重大事が目白押しである。通常ならさばききれない量の仕事だが、実はその前に夏休みがあった。ダラダラとはやってはいたものの能率は良くなかった。少し涼しくなるとなんとかなるが、今年は昨年と同様に暑かったので、なかなか馬力が入らなかった。夏休みのツケは、この時期にやって来る。

それらの中で、同窓会幹事は大事だ。行方不明者を探し、場所の調整、プログラムを企画し、当日は滞りのないようにしなくてはならない。そのメーリングリストの管理者も、試行錯誤しながらしている。しかし、どんなに忙しい時期でも、その時を超えると、あの山を越えたのだ。未来から今を振り返って見るとたいしたことなかったね、ということで糧になっている。だから、その時は多少無理っぽくても、何とかなる場合も少なくない。したがってチャレンジには値するものと思う。

所詮失敗したって、命にかかわるような大したことはまずありえない。何もしないで過ごす連続では、ただ終わるのを待つだけだ。昨年の私は、秋から毎週月曜に全く新手のプログラムの実践までしたのだ。昨年と比べると、今年の私は楽なものである。このように、新たなことに挑戦し続ける自分を維持していたいものだ。

高齢者の出費(2)

From Evernote:

高齢者の出費(2)

高齢者が、いくらつつましく暮らしていても限界はあるだろう。その平均の食費は62000円だそうだ。私のところでも、外食を含めて同じくらいだ。廃棄する食材が少なくないのは不満なのだが、妻に任せているのでしかたないが、節約は不可能ではないと思う。教養娯楽は29000円という。へぇー、贅沢だなというのが私の第一印象である。新聞、NHK,ケーブルテレビ(ネットを含む)でも、そんなにかかるかなぁと私は良くわからない。そうか、パチンコか(笑)と思ってしまう。交通通信費27000円。前にも書いたが、これもケイタイの使い過ぎではないかと思う。ケイタイは、わけもわからずにケイタイ会社のお勧めプランに加入すると、そうなる可能性は高い。光熱費も、いろいろな割引ルールがあって、何も考えずにそのまま使用して高くつくのだ。さらに、振り込め詐欺のターゲットにもなりやすい。その種の特別損失もあるかもしれない。

それはさておき、私は購買行動に関しては強者なのだろうと思う。工夫次第で何とかなるはずだと思うので、いろいろと情報を集め、底値を知り、いろいろなところに要領よく買いに行く。不満ならばクレーム消して、新品と交換してもらったりする。一方、高齢の方は、車のような足がない場合も多い。一度に運べる量も限られて来るだろう。安いところがわかっても、何度もいけない。おのずと、高いけれども、しかたなく近くにて購入する。ネットスーパーのような便利なサービスが提供されていたとしても、パソコンやネットを使いこなせなければ、躊躇せざるをえない、というわけだ。

柔軟な思考ができないと、本当に大変だと思う。支えてあげるネットワークがないと、好むと好まざるとに関わらず、生活は貧困化の傾向にならざるをえないのではないか。私もいずれ、そのような層に突入して行くだろうか。ITのおつきあいは長く、好きでやっていたので、今は有利ではある。しかし心配なのは、全く異なった考えのものが出てきたら、それに果たしてついて行けるかは不安ではある。しかし、そんなことは考えてもしょうがない。その時は、その新しい考え方を覚えるまでだ。思考の柔軟性はあるので、何とか、それまでは持つのではないかと思っているが、ほかの人は持ちこたえられるだろうかと気にはなる。

首都圏への台風・・大いなる社会的損失

From Evernote:

首都圏への台風・・大いなる社会的損失

昨日は参った。JRのある乗り換え駅で台風で3時間近く足止めをくった。その後も駅の混雑やアナウンスの不手際で、日の変わった過ぎまで7時間半、家への途上の非生産的な無意味な時間だった。駅のアナウンスは、ただただ「運転を見合わせている」というだけで、何もメッセージがない。やはり仕事は職住接近が望ましいと、この手のことが起こるといつも思う。おまけに空腹になるから、なおさら機嫌も悪くなる。このような自然災害だと、誰も責められないが。しかし、対応のまずさなどがあると、それは人災でもある。明日も出勤で大変だろうに、日本人というのは実に我慢強い人が多いなと感じる。暴動が起こらないことはやはり、その国民性だろうか。

これを回避するにはどうしたら良いか。台風が来るのが十分にわかっている時などは皆が出勤をやめ自宅待機で休みにすれば良いのだ。一日時計をとめるのだ。その日は空白でなかったことにする(笑)。そうすれば混乱は少なくなる。今の状況は無駄なエネルギばかり使用して、大いなる社会的な損失と思う。そのかわりに、必要ならどこかの休日に一斉振替出勤にするとか。そんな簡単にいくのなら苦労はないだろうが・・。

高齢者の出費(1)

From Evernote:

高齢者の出費(1)

総務省2010年の高齢者無職世帯(二人以上、無職世帯)の家計調査の結果が数日前の新聞に出ていた。月当たりの可処分所得19万弱、消費支出は24.6万円との実態データである。差額の58000円の不足分は、貯蓄・金融財産の取り崩しで補っているというようだ。証券会社や銀行は不足額はもっと必要と煽り、貯蓄を投資信託や株で運用するよう投資を勧める(私は、個人的にはそれには反対であるが)。可処分所得の19万円は決して無茶苦茶な数字ではないので、それならその範囲で何とか暮らせば良いのにと思うが、実態はそんなものだろうなと思う。今日の朝刊のコラムに、こんなことが書いてあった。

母親が毎日一時間歩いて水をくみにいく。頭に乗せた甕(かめ)一杯20リットルが家族五人で一日に使える全ての水だ。「もっとほしくないですか」と尋ねると、母親は澄んだ目でこう答える。「これが神様が私たちに下さった量なのです」

心打つ内容だ。すべて与えられるものに全く疑問を持たずに受け入れるのも問題かもしれないが、そのようなときもしばしばある。そのときは、不平不満を言わずに、この母親のように謙虚に受け止めたいと私は思う。

一言もしゃべらなかった日

From Evernote:

一言もしゃべらなかった日

昨日と一昨日は休みの日。妻は実家へ介護に出ている。食べ物はストックがあるので、家から一歩も出る必要がなかった。電話もならない。メールもまともなのも、この間はなかった。初日は考えてみれば、一言も声を出していない。誰とも会話していないのだ。そうか、こんな日もあるのだと思ったが。二日目も、ほとんど誰とも話さなかった。スーパーに買い物に行ったが、買うものを揃えて黙ったまま支払いを済ませた。夕方に回覧版が来たので、となりの人とちょっと話しただけである。それもなければ二日間、声帯は閉じたままなのだ。

歳をとって、一人きりになるとこのような状態が多くなるのかもしれない。買い物も必要ないし、暑いせいもあって誰も来ないとなると服装もダラダラとで怠惰になりがち。その間は決して何もしていないわけではないのだが、見る人によっては寂しい生活と映るだろう。実際はテレビを見ていたりしていると、向こうから喋ってくるためか、会話をしていないことを忘れる。でも、このひきこもり状態が続けば、やはりコミュニケーション能力は退化して行くのではないかとも思う。

About