就職相談会は私の独断場

昨日は勤務先での親御さんを対象とした就職説明会及び個別相談会であった。
入試関連だけでなく、在学生の就職支援をすることは私たちにとって重要な責務の一つである。お世話係であるが、相談に来る親の状況は、どこもだいたい似たようなものである。家で全く大学のことを話さないし、何をいっても本人は耳を貸さないので、全く理解できないという(それは私も同じですよと言いたい(笑))。
若い先生は年代の近い学生のあしらいは得意だが、学生の親との会話をできれば避けたいと思うようだ。私は逆で、若い社会経験の少ない先生方と比して、私の独断場である。赤子の手をひねるように容易なことで、かつ相手にも満足してもらっていると思う。なぜならば、「この子を何とかしたい」という目標が一致しているからである。このような状況ならば、カウンセリングやコーチングは可能である。

古いパソコン

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古いパソコン

私はパソコンの液晶が壊れていても、キーボードのキートップが外れていても、だましだまし使っている。物持ちは良い方だろう。12年前のWindows98で動くThinkpad240も健在である。極めつけは、これMacintosh SE/30である(一昨日なくなったスティーブジョブズ大ファンであった)。20年前の100万円近くの大枚を払って購入した名器である。Excel2.2が動作し、これまた今でもキビキビと動く(使ってはいないが)。

会社員時代はお給料の中から自費で購入していたが、今は研究費でこのような研究を支える機器を購入できるので大変に嬉しい。今はあまり出し越しなく研究費の範囲で購入している。これも大学によって許容度は変わるのだろう。前に勤務していた大学では、あまり意義も技術的なこともわからない人が、小姑のように「前にも同じような機械を買っているではないか」とネチネチいうので、とても不快だった。今の大学は、購入理由書を書くものの、はねられたことはないので、居心地が良い。

新しいパソコン

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新しいパソコン

今年はMacBook Airの新モデルを購入した。学会に持っていくのもこれにする。まず導入したのは、メールソフトのThundirbirdと、Dropboxと、そしてエバーノートである。その次がオフィスのiWork9である。次がプリンター接続である。ここまでできれば十分に仕事になる。
今回さらにもう一台、昨晩に届いたライフノートである。今や、ちょっとしたメモには、エバーノートは欠かせなくなっている。今となっては古い機種、といってもこの二月発売のNEC LifeTouch Noteである。新品ではあるが、新機種への交代の時期のためか半額以下になっていると思う。私はこの機械をブログ専用のマシンとして位置づたいと思う。いわば、エバーノート専用機械である。入力がATOKなので、入力はしやすいだろう。到着した昨晩と今日は、このマシンと狂ったように遊んでいる。Androidマーケットが使えるのは魅力である。

ライフログをあらわすことは「自信」の表れ

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ライフログをあらわすことは「自信」の表れ

書くということは、その記す内容について自信があるのだろう。私もライフログを記すということは、自分なりのライフスタイルを気に入っているからだ。あえて、うまくいっていないことを書こうとはしない。日記だとどうか、自分のうまく言っていないところまで書くかもしれない。しかし、それでも誰かに見られることを想定していないだろうか。そのレベルとなると、人それぞれなのだろう。不完全な自分を恥さらしで(自分自身を内省する意味ならわかるが)、果たして意味があるだろうか。

私の場合は、ブログの場で自慢しようとは思わないが、もし問われたならば、自分なりに確立してきている内容なので、ある程度の自信はあると答えるだろうと思う。

愛社精神

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愛社精神

私は10数年前に会社員生活にピリオドをうち教師にトラバーユしたのである。同期会をするなんていうと、会社大好き人間と思われるかもしれないが、そんなことは全くない。実は私は「会社」というものが、どうしても最後まで好きになれなかったのである。大型コンピュータの、独自の企業文化を持つその会社の世界が息苦しかった。良く「ウチの会社」というひとがいて、嫌だなと思っていたくらいだ。私は第三者的にI社というように言っていた。競合していた会社に転職しようと思ったこともあるくらいで、当事者意識は少なかったのだろう。

形から入るということは場合によって有効である。ウチのと言い続けることによって、だんだんと当事者意識が出てくるのだ。大学教師の私は今の勤務先をウチの大学というように言っている。するとそのうち不思議なことに愛校精神が沸いて来るのだ。それをしていなかったから、会社時代はイケイケドンドンの人より昇進は遅かったと思う(能力がなかったせいでもある(笑))。
つまり言いたいことは、勤め続けるならば、やはりその勤務先を好きにならないと辛いよねということだ。

懐かしい顔

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懐かしい顔

同窓会で懐かしい顔に会った。仕事でこの間に出くわしてランチした人も少なからずいたが、本当に35年ぶりの人もいた。若々しい風貌の人もいたし、ええっオジイサン?という人もいた。今まで何度かお誘いがあったけれど行けなかった。今度は何とかしていこうと幹事に立候補したのだ。とはいえ、今後はこの同窓での会に、私はまず行くことはないと思う。私自身としては、ひと区切りがついた。一緒にゴルフをとかいうことを言っていた人もいたが、仲良しクラブはもっと身近な人としたい。会社の縁はもう良いではないかという感じである。

同窓会

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同窓会

今年の一大プロジェクトであった会社の35周年同窓会が終わり、参加した皆さんにも喜んでもらい、安堵している。幹事を立候補して、いろいろと連絡係をした。IT関連の会社のためもあるが、全員メールで連絡がつくのはラッキーだった。

行方不明者に往復葉書も出した。また、宴を予定していた食事所は、Eメールを使わないでくれとファックスで来る。プロジェクターは明るすぎて映らないと、数か月後に連絡が来る。私は頭にきた。通常なら、キャンセルするところだ。しかし、その段階でその場でということは仲間内に連絡していたし、またゼロベースで別のところを探し直すのはリスクがあった。そのために私の私の大切にしていた「懐かしの76年ビデオ上映」計画は断念した。残念ではあるが最後の機会であったから、ホスト役に徹した。ちょうどご案内を出そうと思っていた頃に、エッセイストの岸本葉子さんの35周年の同窓会をしたというエッセイ があり、隠れ岸本葉子さんファンの私としては偶然のタイミングに感激だった。

コンピュータの大きな潮流の流れの関係の仕事ができたのは、私自身の臭覚の問題もあったかもしれないけれど、それをさせてくれた大きな「会社」に感謝である。その流れの一つの大型コンピュータからパソコンへのシフトの仕事の25年同窓会を一昨年した。タイトな企業内ネットワークから、オープンなインターネットへの流れの仕事は、昨年にその15年同窓会をした。しかし、何といっても私としては学生時代を終え「会社に入った」ということは生涯で最大のターニングポイントであり、その仲間と育っていったことは私の出発点であったことだろう。

ボランティアに永続的に頼れるか?

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ボランティアに永続的に頼れるか?

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自治会の役員をしている。昨日は、班長会議と月例の定例運営委員会があった。基本的には輪番制で選ばれる役だが、そのような体制でのボランティアの組織に永続的に頼れるかは課題の一つだと思っている。

東日本大震災の初期のころにあるテレビ番組で糸井 重里さんが言っていた。そのような究極の時には人のエゴが出てくるか思っていたけど、そうでもなかった。逆に勇気をもらったり、つながっているという実感を経験したという。 性善説である。確かにそうだろうなとは思う。少なからずの人が東日本震災でボランティアとして行っていた。また、今年初めころにタイガーマスク運動も盛んになっていた。私も少し心を打たれた。手軽に参加できればしよう思ったくらいだ。多くの人はそのような優しい心を持っていると思う。確かにある程度の数になれば力になるのは紛れもない事実であり、うまく仕組みが回るようになると、雪崩現象で社会を変えていく力になるだろう。そのような気持ちを言いたいのだとは思う。

私の疑問は、そのような人はいるとしても、どのくらいいるかである。私個人は、震災後にいろいろな会で協力を依頼され募金をした程度であった。自らたちあがり、積極的に募金集めを推進しようという気まではなかった。どの世代が、そのような活動に熱心か。おそらく私以上の年代は、あまり積極的ではないのではないか。若い人では仕事の休暇をとったりして被災地にも行っていると聞いた。素晴らしいことだ。学生などは時間がある。一方、私の身の回りの若者を見ると、震災後に積極的にボランティアをというような雰囲気は皆無とは言わないまでも少なかった。お金がかかるので、出し越しをする覚悟がなくてはならない。たとえお手伝いをしたいという気持ちはあったとしても、そこまでしてやるかということもあるかもしれない。全く無関心の人すらいて、極端に社会は二極化しているのではないかと思うのだ。

今のボランティアの善意の努力で、本当に社会が回っていくのかどうか良く分からない。私自身の考えは今後変わるかもしれないが、今はこの分野に先頭に立ってチャレンジする気持ちは萎えている。それは未来の人の仕事として託したい。

愛されないこと

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愛されないこと

私は昔から、他者から愛されていないと感じることが多かった。今も癒せているかどうかはわからないが、そのための心の傷がある。私は、親となってみると、それなりに親から愛されていたとは想像するのだが、少なくとも当時はそうは感じられなかった。私が可愛いげのない子だったからと思う。しかし、一部の先生は(部分的に、子供目線で見ると)愛してくれたような気がする。それは、役割としてかもしれないし、お勉強ができたからかもしれない。

今も、「私は周辺の人から大切にされていない」と感じることがしばしばである。
自分の子供達からも、大切な人とは思われていない気がするし、妻からも大切に扱われていないと感じることが時々ある。職場ではどうか。同僚達とは、次元が違うので問題外である。子弟関係でも同様である。学生は私のことを、そして私の大切にしている授業という場を、大切にしてくれない人が圧倒的に多い。

では誰から愛されているか?少なくとも自分自身からは愛されていると思う。それは自分自身の役割を遂行しているから。でも、これができなくなったらわからない。自分で自分のもことをコントロールできなくなったら、私は自分自身を存在価値のない人間としてしまうかもしれない。そうなったら、生きている価値がなくなると感じてまうだろう。

そのような機能を果たしているときだけ愛するという条件付き「愛」は本当の愛とはいえないのかもしれない。機能を果たしているときだけ・・と限定されるのならば、ゲマインシャッフトへの道は遠い。

機能を果たさないと・・

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機能を果たさないと・・

今日はゲマインシャフトとゲゼルシャフトと関連する話だ。人間はいつか、ものごとができなくなることがある。寝たきりで介護状態な人は、役立たずだろうか。何も役割をしていないのだろうか。そのような人を「機能」中心の見方で判断すると、彼らは社会のお荷物とレッテルを張られるかもしれない。
私自身も、そう思わないわけでもないし、今は社会のお荷物になってまで生きたいとは思わない。ぴんぴんころりと大往生するのが理想と思ってきた。しかし、自分自身が同様にコントロールできなくなって、期待される役割を何も遂行できない状態になったら、私は生きている価値がないか、それはおかしいと気づいた。機能主義は、強いものの論理でしかないのではないか。

確かにできなくなれば自己嫌悪はすることだろう。一方、今の日本の社会は全体では豊かである。多少余力のある人が支えてあげられないのだろうか。ゲマインシャフトの世界だ。節電の時のように、皆が本気で支えあえば、そうしない人を養っていけるだけの余裕が十分にあるはずだ。

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