朝ドラのカーネーションでの前向きさ

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朝ドラのカーネーションでの前向きさ

NHK朝ドラの「カーネーション」の不屈な糸子は元気印そのものだ。その種の人は世の中に少ないからこそ成功したのだろう。私の近辺ではネガティブな波動の人が多く大変消耗する。私も一般人よりエネルギッシュだが、あれ程ではない。糸子のような態度の前向きな人達と一緒に新たな世界を作れないものか。

ツィッターは良いけれど・・

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ツィッターは良いけれど・・

ツィッターで短く140文字メッセージで要約して書かれると、ポイントを絞られて読みやすいのは事実だ。しかし、それは結論のポイントだけに限られる。それだけでわかる人もいるだろうが、理解できない人も少なくないだろう。

同じようなことは授業をしていても感じる。単純な本質であるポイントを15倍くらい薄めて、毎回の授業をのらりくらりと少しずつ出していく。ポイントとなるところのメッセージを、手を変え品を変え少しずつ違う角度から、いろいろな例を出しながら繰り返していく。そのためには、多くの言葉を装飾しなくてはならない。140字で本質は表わすことは不可能ではないかもしれないが大変厳しいだろう。試験の時は、その本質のところのみを出題して期末試験とする。だけれども、試験をやった結果を見ると、私の教え方の下手さを知らされ惨めになる。立場を変えて自分自身も学生時代はそのような「本質」をなかなか理解できていなかったのだとは思うのだが・・。

話を戻すと、結論的には、ツィッター的に短かく表現することも重要、冗長かもしれないけれどブログ的にいろいろと言葉を変えて丁寧にわかりやすく説明することも重要、すなわち両方とも必要ということだ。実につまらない結論である(笑)。

ブログと要約版としてのツィッター

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ブログと要約版としてのツィッター

POSTEROUSのブログでは、エバーノートで下書きした本文と写真のレイアウトの不一致があり写真のレイアウトが乱れる時がある。その手直しをしなくてはならない場合はあるし、改行がされているにもかかわらず、されていなくて詰まって見にくいこともある。そのような細かいことはさておき、自由気ままに手軽にかけるブログは制約がほとんどないから、コラムを書くように自由に書ける。
一方、ツィッターは140文字制限がある。これは、要約するのに良いトレーニングになる。長い文章は冗長な場合も多く、読者も疲れる。何事も、必要なら短く書けるほうが望ましいだろう。私も最初のツィッター初心者のころは、ブログに誘導しようとしてURLを記して、あとはそちらにどうぞというモードで書いていた。しかし、それは大変不遜なことであると気づいた。URLは補完的にあっても良いのだが、やはりツィッターの世界では基本的にはそこにて完結すべきものだと思う。

ブログ約200に対して、私のツイートはその半分の100である。ツィッターは多くの人の見ている公開の場なので、少し出すのは控えている。私はブログの文章をもとにツィッターへと要約している。ブログのもとの文章は長い場合が多いので、それを削っていくのだが、振り返ってみるとその140字以内のツイートだけで内容は十分にわかる。自分自身でポイントが整理されていないことが、要約してみてわかることもある。

このようなことは、要領を得ない他の人の発言や文でも思うことでもある。やはり、頭が整理されていないから、他者にとってもわかりにくいのだ。全員がツィッターでそのようなトレーニングをするようになれば、世の中はもっとすっきりとした社会になるのではないか。とはいえ、世の中には、ひたすら情報を隠し、あいまいにしていることで存在意義を保っている人も少なくないのではないか。冗長性のもっと少ない世の中になったら、大量失業で大問題になると思う(笑)。

ブログの継続

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ブログの継続

ここまで毎日毎日、200近くのメモを書いてきた。我ながら、すごい。日々が飛ぶように時が過ぎる毎日を大切に、一つずつ異なるブログを書く。そしてメールを送るのが私の一日のスタートだ。ブログを書くことなしには、ただ漫然と日々が過ぎていき、後にその頃何をしていたか、何に関心があったかを何も思い出せない場合も多かった。ブログを書いているからこそ、意識して思いついたことをメモしているわけで、それがなければ流れていっている情報も多い。例えば、数日前のペーパータオルのように、業界の人以外の一般人にとってはどうでも良い記事もある(笑)し、ブータンの幸せ指標だって新聞での新刊の受け売りだが、ブログ用にメモをしておいた。通過していってしまう諸々の情報に本人が「意識して」日々目覚めながら生きることを思い起こさせる、それが日記をブログをつける意義だろう。
何とか300記事くらいは書き続けられそうな予感はある。ただし、400まで書けるか、書くかどうかはわからない。前にも書いたけれど、相変わらずバックログのメモが、入れ替わり立ち替わり30くらいある。ネタがなくなったら、このことを書こうという、その時期に関係しないものをしたためておく。なくなってきたら、出すためのヘソクリのようなものだ(笑)。一つのネタを分割して数回に薄めて記す技術も身に付いた(笑)。 

幸せ指標その2

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幸せ指標その2

幸せ指標の昨日の話は、プライベートの分野での範囲だったが、今日は仕事の範囲である。3条件のすべてを満たすのは、実際的には難しいと思う。私の場合も仕事においては異なり、条件を満たしているとは言い難い。自己概念に関してはどちらも同様だ。世界像は、教師をしている関係上、私の勤務する大学であり学生のいる世界とする。いろいろと言いたいこともあるのだが、他者であり環境でもあるので、やすやすと変えるわけにはいかないし、そもそもできるものではないだろう。だから、まわりの世界は所与のものと考え、批判するのはよそう。

問題はそのつながりのところである、その世界に対する私の持つ貢献感だ。私の存在が役に立っている感じがほぼ全くといって良いほど感じられない。教育していても、糠に釘という感じで、釘を打つ意欲をしばしばそがれる。何年もいろいろと、それでも「私にできることはないか」試みたが徒労に終わった。私の教え方が下手なのだと自責にとらえると、自己概念が徐々に悪化してくる。残念ながら、この仕事の分野に関しては、未達成でキブアップである。アドラーは3条件を満たせとは言ってはいるわけではないが、必ずしも「幸福とはいえない」という結論になるのかもしれないが、幸せに向けて事態を打開しようとするならば、何らかの手を打たねばならない。

幸せ指標

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幸せ指標

幸せというのは人々の永遠のテーマである。まだ読んではいないのだが、「幸福の国ブータンに学ぶ 幸せを育む生き方」(同文館出版)という本がある。幸せの本質を探り、幸せな心のつくり方を教えるのだそうだ。また、法政大学坂本教授による40の社会経済統計指標から「幸せ度」を評価した試みもあるように、幸せ指標の考え方もあちこち出てくるようになった。決定打はなかなか見つからないと思うが、アドラー心理学では、三つの側面からみることを言っている。それは、自己概念、世界観、貢献感である。

私の場合は自己概念は、公私を問わずあまり変わっていないと思う。世界観は、とりまく世界の限定するところによって変わりうるかもしれない。私は人々は仲間だと思えるようになってきてはいる。そのために、貢献したいとも思っている。ただし、他者も私のように貢献したいと思っているかは別問題だ。それによって私は他者を批判したくなるときがある。なぜ、自分だけが・・・という被害者意識が時として生ずる。それが私の世界観に影響する。共同体に対して建設的で好ましい人もいれば、そうでない人もいる。そのような現状認識は、以前から変わっていない。実際のところ両種の人がいるのだけれども、結論として世界は危険なところで「NO」だというのが、かつての私の捉え方であった。今の結論は、そうはいっても総合的にみるならば、世界は信頼できるのではないかという世界像は「YES」のスタンスである。つまり、三条件を満たしているので「幸福だ」ということになるかもしれない。

ペーパータオルを使うトイレ

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ペーパータオルを使うトイレ

私が会社員として入った35年くらい前に、勤務先のトイレにはペーパータオルがあって、「へぇー。ハンカチで拭けばよいのに、都会ではこんなものなのか」と驚いたものだった。使い捨てのペーパータオルは抵抗があったが、そのうち慣れてきて私自身も使うようになった。何年かのちに、会社の財務状況が怪しくなってきて経費節減策の一つとして、ペーパータオルはなくし、ハンカチ持参となった。
その後に登場したのが、手の温風乾燥機である。あれよあれよという間に、スーパーや公共の場でも増えていったようで、ペーパータオルは、あまりみかけなくなった気がする。その電気式手乾燥機は、今年は節電モードになってから止められることも多くなった。その代わりにペーパータオルが再登場した所も見かけるようになった。ハンカチで何度も手をふくのは、衛生的でないのかもしれないが、節操がないなと私は思う。

父の日そして誕生日の日

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父の日そして誕生日の日

誕生日に限らず父の日でも、子どもたちからメールを含めて何も特別なことはないのは毎年のことである。娘からは、気の抜けたビールのように、半年後とか翌年に会ったときにプレゼントをもらえる程度である(それでも、嬉しいが・・)。息子達からは、全くない。自分の時も親に対してそうだったから、そんなものだろうとは思っている。この世にあたりまえのことなどないのたが、あたりまえだと思っていると、感謝の心が貧弱になるのだろうと想像する。とはいえ、私の場合は20代後半になって親を連れて旅行とか行ったものだ。孫の顔を見たいだろうと、実家にしばしば連れていったりしたものだ。しかし、今後も彼等が親になるまで親の心はわからないだろうと思う。

必ずしも同じ経験をしていなくても、他の人の気持ちを想像する能力は持っていてほしい。同じ年代の子たちで、親の心に気づく人は確かに少ないのだけれど、全くいないわけでもない。可能であれば、そのような人を息子のお嫁さんにしたいものだ。しかしそのような人は私の息子たちを選択してくれないだろう。やはり同類をパートナーとすることに至るのだろう。私の身の回りの学生もそうなので、諦めるしかないのだが。他者の心の想像できる若い人と出会いたいと思う。そして、そのような人をもっと元気にして社会を好ましいほうにシフトしていくのに貢献する、それが私の教師になった原点だった。そのような若者とは永遠に出会えないかもしれないという予感が確かになってきていることが、私がこのところ虚しさを感じる理由の一つである。

誕生日

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誕生日

昨日は私の誕生日だった。私の特別な日ということもあり、妻の特製手作りディナーメニューの写真が下記で、ブイヤベースの海鮮料理と柿とラム酒のレーズンのデザートだ。写真だとそれほど見栄えはしないように見えるかもしれないが、一つずつ凝っているもので美味しい。

この1日前に、「ねんきん特別便」という書類が到着した。ほぼ確定の年金予想金額が出ているものだ。その書類を見ていた時に、ラジオで、ハワイのスタジオからの実況中継をしていた。リタイア後に、ハワイで暮らすというのは、昔からの憧れでもあった。まだまだ先のことと思っていたが、私も比例報酬部分の部分年金のもらえる時期は3年後と十分に射程距離となった。今までは働き続けることを疑わなかったのだが、そのときを目指してリタイアして何か別のことをしようかなという気にもなってきている。

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ツィッターで楽しむ老後

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ツィッターで楽しむ老後

タイトルはそうしたが、これは私のことを意味してはいない。私の親は両方ともすでになくしているが、もしあの世で暇をもて余しているようだったら、ツィッターを勧めたいと思う(笑)。適度な緊張感を持ち、頭や体を使わないと、臓器や細胞は不要と認識して退化していくという。その結果老化が進み、気分も落ち込みがちになるということだ。これは、年寄りだけでなく、若い人でもそうである。親元を離れたくて下宿した大学生が、うるさく言われていた親からも何もいわれない環境になると、一日中だらだらと過ごす。人間は苦労をわざわざ望まず、楽をしたがる傾向にあるからだ(吉川敏一京都府立医大学長(日本経済新聞10/21夕刊記事より一部抜粋)。

ある人のツィッターのつぶやきの2000近くをその記事をみた日にざっとみたのだが、これはすごい。そのくらい、つぶやいていると、その人の日常が想像つくし、興味もわく。 ただし、そのためには キーボードが手や口の如く、またディスプレイが目や耳のように自由に使えるという条件がつくだろう。現在の機器での制約条件を外すために、音声入出力技術の向上が欠かせないかもしれない。無線LANも病院などで整備されることも重要だ。その人自身の安否もそうだが、ご本人にとっては他者の生き様を見られて大変興味深いのではないか。きっと面白い発見がある思う。ipadのようなもので、タッチ式入力の仕方を教わり、使えるようになれば、病院でも暇つぶしをできる。自ら情報発信するようになれば、老化の防止になると思う。私も、そのような寝たきり状態になったら、ずっとツィッターをしていたい。

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